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GLAY、17thアルバム『Back To The Pops』発売 TERUが明かす故郷・函館で音楽を作り続ける想い「大都市だったらGLAYは生まれなかった」
根本にあった、ロックバンドのビートやポップ感「GLAYをGLAYたらしめてきたもの」
TERUもともと『Back To The Pops』というタイトルはアルバムのコンセプトというか、「こういう方向性で楽曲を構築していこう」とメンバー間で情報共有するためのワードだったんです。GLAYの30年を振り返った時に、新しい音楽にも挑戦してきたけれど、その根本には自分たちがバンドをやり始めた頃に影響を受けてきた日本のロックバンドのビートやポップ感が確実にあって。それがGLAYをGLAYたらしめてきたものだとTAKUROもよく言っていて、だからこそ30周年という節目にこのコンセプトを出してきたと思うんです。
──そのコンセプトワードが、そのままアルバムタイトルに?
TERUこれ以上、このアルバムを象徴する言葉はないんじゃないかとメンバーの満場一致でした。それとこのコンセプトが間違ってないと確信できたのが、ちょうどアルバム制作中の今年2月。QUEEN+ADAM LAMBERTの札幌公演のゲストとして出演させていただいたんですが、バックヤードでブライアン・メイが「素晴らしいステージだった」と声をかけてくれたんです。
──「グロリアス」(8thシングル/96年1月発売)で幕を開けた同ライブでは、メガヒット曲の数々を披露。のっけから観客も総立ち盛り上がりました。
TERU僕らの代表曲と認識していただいてる、特に初期の楽曲には80年代90年代に活動されていた先輩バンドの影響が色濃く反映されています。そうした日本のロックをあれだけキャリアのある世界的なミュージシャンが評価してくださったことにすごく自信が持てましたし、それを今の時代に継承していくという意味でも本アルバム制作の力強い後押しになりましたね。
「全曲、みんなでスタジオに集まって録ったのは大きかった」
TERURomanceとRoseを出すって、まさに"あの頃"の感じですよね。僕らがデビューする前にはまだヴィジュアル系という言葉はなくて、ZI:KILLやD'ERLANGERといったバンドがポジティブパンクとかビートロックと呼ばれていました。GLAYの初期曲だと「彼女の"Modern…"」(3rdシングル・94年11月発売)などはまさにその影響下でできた楽曲でしたが、「Romance Rose」はさらに高校時代に初めてバンドを組んで一生懸命コピーをやっていた頃みたいな感覚があって。本アルバムの収録曲はどれもそうなんですが、たぶん当時音楽を聴いていた方なら「このフレーズはあのバンドのあの曲?」と連想するんじゃないかって思います。
──純粋に自分たちの好きな音楽に向き合っていた、あの頃に戻ったような感覚で曲作りをされていた?
TERUそうですね。やっぱり全曲、みんなでスタジオに集まって録ったのは大きかったと思います。コロナ禍ではどうしてもリモートでやり取りしながらの楽曲制作にならざるを得なくて、それはそれで実のあるものができたとは思うけれど、スタジオでみんなで音を出す楽しさには変え難いものがあるんですよね。終わってからみんなでご飯を食べに行くのとかも含めて。
──30年前を思い出しますか?
TERUそれこそデビュー前はお金もなかったですし、リハスタも夜中12時から4時までの格安パックばかり利用していましたね。8時頃に仕事が終わるので、みんなでファミレスとかに集まってご飯を食べながら夢を語り合って、そしてスタジオに行って終わったら1時間くらい寝てまた仕事に行くみたいな。ドラムも定まらないバンドで不安もありましたけど、とにかく曲だけは作ろうとがむしゃらにやっていました。
──それが94年にデビューしたらたちまち?
TERUそうでもないんです。デビュー曲をリリースして1〜2年はツアーもクルマに機材を詰め込んで全国のライブハウスを回っていましたし、初めてのホールライブも2階席はガラ空き、1階席も3分の2が埋まっていたかどうかくらい。だからその直後の怒涛の展開はよけいに「何が起きてるんだ?」でした。
ミリオンヒットで多忙の毎日でも「流されずにGLAYの音楽を守ろう」
TERUフロントマンとしてきちんと立っていなきゃいけないという意識はありつつも、台風の目のど真ん中にいると意外と冷静でいられるもので、僕自身は病むこともなかったんです。ただあの頃は音楽をやる以上に取材や移動に時間を取られていて、もっとリハーサルしたい、曲作りに集中したいのにそれができないストレスはありましたね。特にTAKUROはリーダーでもあるし、プレッシャーでいっぱいだったと思います。1週間くらい失踪して連絡が取れなくなったこともありましたから(笑)。
──どうされていたんですか?
TERU(LUNA SEAの)SUGIZOさんと(東京スカパラダイスオーケストラ)の谷中(敦)さんとロンドンに行っていたんです。そして帰ってきた時に誕生したのが「HOWEVER」(12thシングル・1997年8月発売)でした。あの頃の日本のロックバンドって何もわからないままデビューして、利用だけされて捨てられるケースがいっぱいあったんです。僕らもそういうバンドをたくさん見てきましたから、とにかく流されずにGLAYの音楽を守ろうと、TAKUROがすごく戦ってくれていましたね。
TERU僕の夢は10年後20年後もアリーナやドームに立ち続けられるバンドでありたいということで、そこの鍵を握るのはボーカリストだと思っています。その上で年齢を重ねるとやはり声帯は衰えていくもので、昔は地声でハイトーンが出てた曲が歌えなくなる時もくるかもしれない。だったらキーを下げて歌うという選択肢をするボーカリストもいるけれど、自分はそうじゃないんだろうなと感じているんです。
──たしかに原曲のキーが変わると、ファンとしては一抹の寂しさを感じることはありますね。
TERUキーを変えることが善か悪かというのは、もはや僕の中では問題ではなくて。ただ突然、過去の楽曲が歌えなくなったらファンの皆さんを悲しませてしまう。その状況にだけは絶対にしてはいけないと思っていて、この曲では特にキー設定や歌い方をいろいろと検討しました。僕は年齢による声の変化は悪ではなく、むしろ人生の色合いだと思っています。ただ稲葉(浩志)さんのように、還暦を前にして変わらず見事なハイトーンを響かせる先輩がいることに、とても奮い立たせるものもあるんですよね。
函館のレコーディングスタジオで仲間たちと作る音楽「その風景が僕にとってすごく幸せ」
TERUファンのみなさんがよく「函館で聴くGLAYは格別だ」と言ってくれるんです。自分の住む街で聴くのもいいけど、函館で聴くとぜんぜん違うものがあると。じゃあそれを音源に閉じ込めるにはどうしたらいいか? ということで、7年ほど前に函館にスタジオを構えて、歌入れは全部そこでやってるんです。それをきっかけにメンバーも改めて自分が生まれ育った場所を振り返る機会ができたと言ってくれます。
──日本のローカル都市である函館で、日本を代表するバンドが誕生したことにも感慨深いものがあります。
TERUよくTAKUROは函館は(ビートルズが結成された)リバプールに近いって言うんですよ。小さくて美しい街だからこそ、絵画的で詩的で。また当時はインターネットもなかったですから情報も限られていて、そんな時代に凝縮された音楽に影響を受けて出会った4人がバンドを結成した。たぶん東京とか大都市だったらGLAYは生まれなかったんじゃないかと思います。
──M14には南海キャンディーズ・山里亮太さんとGRe4N BOYZ・HIDEさんがゲスト参加されていますね。
TERU山ちゃんと僕が函館の街を紹介する番組の収録があって。それで、山ちゃんを僕に紹介してくれたのがHIDEくんで、「僕も遊びに行っていいですか?」と函館まで来てくれたんです。その後、みんなでスタジオに集まってお酒を飲んでいた時に、TAKUROが「こんな曲があるんだけど、参加してくれない?」と、もうお酒の勢いで決まったようなものでした(笑)。
──東京のスタジオだったら、そうしたマジックも起きなかったかもしれない?
TERUまさに、東京ではレコーディングが終わったら解散ですし、これでいいのかな? というモヤモヤはずっと自分の中でもあって。函館のスタジオにはよく僕の両親も来てくれるんですよ。レコーディングが終わったらみんなでそこでご飯を食べることもよくあるし、その風景が僕にとってすごく幸せなんです。このアルバムのように、GLAYはいろんな音楽に影響を受けてきました。その上でGLAYらしいと言われる音楽が生まれてきたのは、函館=ホームという場所は大きかったと思っています。
──30周年プロジェクトはまだまだ続きます。11月からは「GLAY EXPO」が開幕。どんなツアーになりそうですか?
TERU今回のアルバムの新曲はもちろんですが、30年やってるとマニアックな楽曲を披露する機会が少なくなってくるんですよね。でも僕たちにとってはどれもGLAYらしい可愛い楽曲ですし、30年間支えてくれたファンへの恩返しも込めてこのツアーではちょっと意外な選曲も小出しにしていこうかなと思っています。とはいえ壁を作る感じではなく、30年の中の代表曲も詰め込みますので、お友だちと一緒に楽しんでくれたらうれしいですね。
取材・文/児玉澄子 撮影/岡田一也
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