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全身40%の火傷で植物状態に…男性が生還できた理由「母が手を握ってくれなかったら諦めて死んでいた」
ライターの火が引火して爆発、火だるまになりながら119番「その場にいたら死んでしまう」
火傷は顔と両腕と膝から下の両足にわたっていました。その時点では、すぐに死の危険が迫る状態ではありませんでした。翌日には目覚めて、「ただの火傷だ。治ればまた元の日常が取り戻せる」と考えたほどです。ですが、免疫力が下がってしまい、黄色ブドウ球菌という非常に強い細菌に感染してしまいました。普段は空気中のいたるところにある菌なのですが、感染したことにより急激に体に変化が起こり、多臓器不全とともに、敗血症になってしまいました。
搬送先の医療センターでは、所属されている先生たち全員が私を救うことを諦めてしまい、別の病院へ搬送されました。
私自身は、痛みを通り越して錯乱状態になってしまっていたので、火傷の部分を掻きむしらないよう拘束具というもので身体を動かないよう抑えてもらいました。火傷は今も見た目で跡は残ってしまっていますが、命の危険に陥ってしまったのは細菌感染の方でした。
“最期”だと悟った際に選んだ言葉は“母の日に贈ったカーネーション”だった
「カーネーション嬉しかった?」と母に聞くと、「嬉しかったに決まっているじゃない」と泣きながら答えてくれました。母からの、その言葉が聞けたなら最期になっても良い。そう思った私は、先生に投薬を承諾しました。
それから麻酔のように身体の自由が一切効かなくなり、眠りについたような感覚で植物状態になりました。すると、2〜3日後には身体は動かないものの、会話が聞こえるように。両親が面会に来てくれて、話しかけてくれている言葉や医師たちが懸命に命を救ってくれようとしている姿など、本当に全ての会話や行動を理解していました。意識がない期間は2〜3ヵ月あったと後になって聞きました。毎日私に懸命に話しかけてくれた母の声、先生の声まで、今もはっきりと覚えているのです。
意識はあるのに体が動かない…そんな中で医師が両親に告げた「今夜亡くなります」
その日、10時間以上も母が手を握っていてくれた感触も覚えています。「本当は今意識があって、生きているよ」と両親に伝えられない辛さと「今日で自分は死んでしまうのか…」という苦しみ、もっと色々なことに挑戦したかったし、テレビや雑誌に出ているような行ったことのない景色を見ておきたかった、家族や知り合いの人になぜたくさん優しく接してこなかったのだろうという後悔だけが残っていました。
ですが、両親が諦めずに握り続けてくれていた手の感触と、「どうか高信を連れて行かないで」と祈り続けてくれた言葉のおかげで気を保ち続けることができました。
当時のことは全て母の手帳に記録が残されています。確実に言えることは声をかけてもらえなかったり、手を握ってもらえていなければ、自分は諦めて死んでいたということです。「あとは本人の気の持ちようです」という言葉がありますが、あれは本当です。
こんなにも痛くて、目も開けられず絶望しかないのなら諦めようかと思う瞬間が何度かありました。気を保っていないとどうにかなりそうな場面がありましたし、気を抜いたらそのまま死ぬ感覚がありました。生きることを諦めたくない気持ちが何より重要でそこにプラスの力を与えてくれるのが周りの方々の声なのです。
医療関係者や両親は2〜3ヵ月後に目が自力で開けられた時、私が意識を取り戻したと感じているようでしたが、命懸けで助けてくださったことや母が祈っていてくれたこと、好きだったCDを流す許可をもらってかけてくれていたことから、どんな曲をかけてくれたのかにいたるまで全部分かっていたので、目を開けただけでこんなに喜んでいてくれていることが不思議でした。
「話しかけても無駄」残酷な教授の言葉 絶望と怒りから救ってくれた母の存在
「あなたに助けられたのではなく、救命の現場で寝る時間も削って24時間体制で診て下さった医師のチームと両親のおかげです。教授さんは何もしていないじゃないですか? 植物状態の時に1度しかあなたの言葉は聞いたことがありませんでしたよ」と言い返せる状態なら言ってしまっていたかもしれません。
一方、両親は先生から「(私の)意識がない」と言われていたので、私が目を開けた時、母は父の肩を叩きながら泣いて「本当に良かった。祈りが通じた!」と心底喜んでくれていました。
最初は瞬きと眼球を動かすことしか出来なかったので、意思の疎通はあいうえお順のボードで一文字ずつ瞬きだけで言葉を紡ぐやり取りから始まりました。はじめは「ごめんね。こんな身体になってしまって」や「来てくれてありがとう」と伝えるのに40分以上もかかっていましたね。
番組で放送された時、小学校からの同級生が映ってくれていました。最初は気丈に「助かって良かった」と喜んでいてくれていましたが、元気だった私の身体を知っていただけに、変わり果ててしまった私の姿に耐えられなくなったのか、命が助かって良かったという安堵、こんな身体になってしまったという悲しみの両方で涙を流してくれました。感謝を伝えるために「もう大丈夫だから元気になるから」とありがとうの気持ちを込めて、ハンカチを渡しました。
震災などの有事の際、被災地で親族や知り合いの方が生きていた時に涙を流して喜ぶ姿を目にしますが、本当にその通りなのです。人は生きているだけで誰かを幸せにしているのだと思っています。
PROFILE 濱安 高信(はまやす たかのぶ)
二十歳の時に重度の火傷を追い、余命0日の宣告をうけるも、 600名ほどの輸血により奇跡的に助かる。車椅子から立ち上がれないと医師から告げられたが、リハビリにより装具を着けて歩けるように。書籍『余命1日の宣告』(パブフル)著者。高等学校卒業程度認定試験合格を経て、現在は慶應義塾大学経済学部通信部在学
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