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荒俣宏、なぜ“最後の小説”の題材に福澤諭吉?「権威になりすぎた諭吉の“面白おじさん”ぶりを蘇らせたかった」
福澤諭吉の最もすごいところ「肩書が一切ないからこそ、“独立自尊”の面白おじさんでいられた」
荒俣宏あれがA面だとしたら、『福翁夢中伝』はB面だと思って気楽に読んでいただければいいかなと思ってます。何しろ『福翁自伝』って面白すぎるんですよ。早川書房の社長に「あれを超える面白い福澤伝を小説で書きなさいよ」なんて言われて、そんな無茶な…と最初は断ったんです。だけど早川書房には恩がありますからね。海外のSFだとかヒロイックファンタジーだとか、あんなの小説じゃないって言われてた時代に、唯一、翻訳をさせてくれたのが早川書房でしたから。
──荒俣さんの作家活動の原点ですね。その恩義から5年もの歳月を懸けることに?
荒俣宏あと『福翁自伝』はたしかに面白いんですが、“面白いおじさん”としての諭吉が描かれていない。それは速記者に語って書かせてるからというのもあるんだけど、近代日本の成立に果たした多大な貢献に関することが主で、その背景や裏側にあった面白エピソードが省かれてしまってるんじゃないかと思ったんですね。
──たしかに「諭吉=1万円札」になった偉い人というふわっとしたイメージしかありません。あるいは慶應義塾大学の創設者とか。
荒俣宏大先生として奉られてるけれど、諭吉は官僚でもなければ博士でもないですからね。そういった偉そうな肩書が一切ないからこそ、“独立自尊”の面白いおじさんでいられたのが諭吉の最もすごいところだと思うんです。ただ、そこが現代には正しく伝わってない。面白いおじさんの諭吉としては、それは意に満たないところがあったんじゃないか? という考えに行き着いて、ようやく『福翁夢中伝』に取りかかれましたね。
“経済”や“版権”…実は言葉の生みの親だった福澤諭吉
荒俣宏どれも当時の日本にはなかった概念ですからね。そのまま英語で「エコノミー」「スピーチ」なんて言っても意味がわからないし、誰も使わない。漢字を巧みに使ったのは諭吉に漢語の素養があったからだけど、センスがいいですよね。諭吉の作った言葉のおかげで、近代化がグッと進んだというところはあったと思います。
──荒俣さんも翻訳の仕事を通して「魔道」や「召喚」など、今やゲームやライトノベルでごく当たり前に使われている造語を数々発明されています。
荒俣宏それを諭吉との共通点と言われるとおこがましい。定着しなかった造語もありますよ。青銅の剣を「段平」と訳したのとかは、評判が悪かった(苦笑)。ただ、諭吉が作った言葉も全部が全部残ってるわけじゃなくて、たとえば彼は「week」を「ヒトマワリ(一周)」と訳してるんです。当時の日本には1週間の単位がまだなかったですから。ただイマイチ定着しなくて「忘れられた」とか愚痴をこぼしてたそうです(笑)。
──1週間を「ヒトマワリ」とは、たしかに今は言わないですね。
荒俣宏僕は不思議な味わいのあるいい訳語だと思うんですけど。だけど今は漢字で訳語を作ることも減りましたね。だいたい英語をカタカナにして終わりにしちゃう。かと思えば「蛙化現象」とか、文字で読んだだけじゃパッと意味がわからない新語もあったりして。諭吉が今生きてたらどうしてただろう。もっと面白い言葉を作ったんじゃないかなとか思ったりしますね。
代の慶應に引き継がれる“諭吉イズム”とは
荒俣宏そうですよ。海外から武器を買うくらいなら洋書を1冊買ったほうがどれだけ日本の近代化に寄与するか、諭吉はよくわかっていたわけです。鉄砲で撃ち合ったりなんてのは、文明人でもなんでもない。彼がアメリカや西洋に行って一番感動したのは、汽車や電報といった利器じゃないんです。海軍の大将でも家に帰ると奥さんの代わりにエプロンして普通にキッチンで料理をしていた日常倫理のすごさなんですよ。
──「男子厨房に入るべからず」の時代に。
荒俣宏そうです。今では当たり前だけど、男女同権なんて喧伝して回ったら「この西洋かぶれが」と攘夷派に命を狙われた時代でしたからね。覚悟が違うわけです。ちょっとかじった人が「福澤諭吉は民権主義だった」とか「いや、国権主義だった」とか言うんだけど、諭吉はそんなくだらないイデオロギーには関心がなくて、ただ日本人に文明国の品位を身につけさせたかっただけなのです。そしてその根本には、家庭も男女関係も職業も平等と独立が大事という考えがあった。
楽しい我が家を作ることが国家より政治より何より大事。これが成立したら、もうあとはそういう家庭が寄せ集まれば、自然に文明国ができる、と。そして、そういった人間的な自然の倫理を普及させるためには教育、本が重要だというわけです。「無知」こそがいちばんいけないのです。
──そうした“諭吉イズム”は現代の慶應にも引き継がれていると思いますか?
荒俣宏慶應高校の野球部が今年の夏の甲子園で優勝したのを見て“諭吉イズム”を感じましたね。要は、これまでの伝統やしきたりみたいなものに同調しない「やせ我慢」。だけど自由でありたい。好きなことをしたい。だったら権威にすり寄るよりも、やせ我慢を通したほうがよっぽどいいと。そんなやせ我慢の精神は今の慶應にも息づいてるんじゃないですか。だいたい僕みたいな世俗の作家に福澤諭吉伝を書かせてくれるなんて、相当自由ですよ。
──本書が荒俣さん“最後の小説”と断言されていることにも、一ファンとしてはザワザワしていますが。
荒俣宏まあ、それはいいじゃないですか(笑)。僕も肩書きは何も持ってないですし、タイトル的なものにこだわりはないですから。ただ、ちょっと権威になりすぎてしまった諭吉の“面白おじさん”ぶりを、この本で現代に蘇らせられたら本望ですね。
(取材・文/児玉澄子)
『福翁夢中伝(上・下)』荒俣宏著・早川書房
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