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「本麒麟」ヒットに至るまでの“12連敗”をいかに糧としたのか? キリン・マスターブリュワー田山智広が語る「良い負け方」の定義
“ドライ戦争”前年での新卒入社、「ビールは理屈だけじゃない!」を叩き込まれた工場勤務
――田山さんの軌跡を改めて振り返ると、1987年の入社以来、ビール市場を揺るがす“変革期”に、常にその身を置いていたと思うんです。
田山智広 そんな昔話をするとは思わなかった(笑)。でも、言われてみれば、確かにそうかも知れないですね。87年はちょうどアサヒさんの『スーパードライ』が出た年でした。
――『スーパードライ』の大ヒットに伴う、俗に言う“ドライ戦争”(※各社がこぞって“ドライ”の名称を冠した商品を発売)前年での入社でした。さらに翌88年は、御社を象徴する「聖獣麒麟」が描かれたラベルの誕生から100周年でもあったと記憶します。まさに渦中です。
田山智広 とはいえ、当時の私はただの新卒1年目でしたので、当然ながら上層部でどのような議論が交わされているかなど知る由もありません。「ドライ戦争」という風にメディアが名付けて、煽られている印象はありましたし、それまで割と順風満帆だったキリンの先行きに少しばかり不安を感じたのは事実です(笑)。ただ私の場合、大学院でバイオテクノロジーをかじって入社したので、純粋な技術者として活躍したいなと思っていました。
――当初は売上云々とは別軸で、あくまでも研究者としての欲求を満たす環境を望んでいたんですね。
田山智広 ビールに関しても、もちろん好きでしたけど、そんなに“奥深いもの”として捉えていなかったというのは、正直あります。実は私が入社した87年は、ちょうど社内的にも体系的な技術研修を行う研修センターというのができた年でした。さぁ仕事をするぞ!と思ってた矢先に、半年間そのセンターで研修の日々(笑)。でも、その過程の中で、ビールを作ることの奥深さを知ることになって。これは結構やりがいあるぞ…と。
田山智広 そうです。工場という環境は、ある意味で自分自身の“今”を形成したことは間違いない。それまで同じ年代と過ごしてきた若造が、親父ぐらいの年齢の方と接することになる。男女含めて様々な人たちと一つの目的のもと、仕事をするという環境に置かれたわけです。まずそこに適応することに精一杯。それこそ「ドライ戦争」に勝つにはなどと、冷静かつ戦略的に考える余裕などは無かったです(笑)。
――歴戦を潜り抜けてきた職人肌の工場員と、どう関わっていくのか? その経験が現在の田山さんに繋がる大きな糧となった?
田山智広 ガツンとやられましたけどね(笑)。でも今思えば、最初に工場勤務になったことは本当にありがたかった。本流のビール造り以外に搾りカスをどのように処理するのか、排水処理をどのように行うのかなど、全体像を把握できたので。その中で、ぽっと出の若造が、性別や経験値、考え方の異なる年配の方々に対して、自分がやりたいこと、今やらなくてはいけないことをどのように伝えるべきか? “本流”以外をしっかりと理解することで、現場の方々の理解も徐々に得られていったと思います。
――入社1年目でさまざまな側面を垣間見られたことは、田山さんにとって財産になったんですね。
田山智広 そうです。そこには“理屈”が介入できないこともたくさんありました。それを実感できたことが良かった。実は新人研修の最後に、自由にビール作って良いというお達しが出た。僕らもそれを凄く楽しみにしていた。同年代でレシピを組んで、自分たちなりの「最高のビールを!」と息巻いていたのですが、結果は散々…。ちょうど同じタイミングで、全国の工場から選りすぐりの職人たちも集まり、我々と同じように座学を受けていたんですけど、そのおじさんたちが作ったビールがどれも凄く美味しかったんです。ああ、俺たちはやっぱり頭でっかちだったと(笑)。
――理屈じゃない力に打ちひしがれた。
田山智広 「ビールは理屈だけじゃない」ということ、そしてビールの奥深さを改めて痛感しましたね。