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山崎育三郎の“核”を作ったミュージカル3作 「誰よりも『レ・ミゼラブル』が好きなだけだった」
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※ミュージカル作品のネタバレを含みます
撮影:田中達晃/Pash 取材・文:大原 薫
12歳からミュージカルの道へ 初舞台は「全身鳥肌が立つくらい感動」
最初に触れたのは『アニー』。幼稚園くらいのときだったかな。母が4兄弟(育三郎さんは三男)を連れて青山劇場に行くのが毎年恒例になっていたんです。僕はとにかく人見知りだったので、自分と同世代の子役たちが舞台上でキラキラ輝いている姿がうらやましいと思っていたことを覚えていますね。「自分はいつも母の後ろに隠れているのに、悔しい」って。
CDを買ってもらって、家に帰っても繰り返し聴きました。『トゥモロー』『メイビー』の後にカラオケが入っていたので、それに合わせて歌っているのを聴いた母親が「いい声だし、音程もしっかりしてる。歌うことで自信がつくなら習わせてみようかな」と思ったそうで、近所の歌の教室に連れていってくれたんです。
まさか受かると思っていなくて、本当にダメ元で受けたんです。ダンスもやったことなかったし、一緒に出ている子役たちの中でも自分が一番できなかった。でも、稽古が半年くらいあって、子どもなので吸収も早かったから、初日までにはある程度形になっていたんじゃないかな。アートスフィア(現・天王洲 銀河劇場)で初日を迎えたとき、全身鳥肌が立つくらい感動しました。将来もミュージカルをやっていきたいと思った瞬間でしたね。
感動的でしたね。甲斐先生は僕が『フラワー』でデビューしたとき、オーディションで選んでくれた先生でもあるんです。2020年に同じステージでご一緒できて、とても感慨深かったです。
野球は6年間やっていたのですが、アルゴミュージカルのオーディションを受けたのが小学校6年生のとき。野球の監督からどちらかにするように言われて、そのときはもうオーディションに受かって出演が決まっていたので、野球はやめざるを得なかったんです。野球も全国大会でベスト8になるくらい本気でやっていたので、両方やるというわけにはいかなくて。
子どもの頃に出会ったミュージカルスターのお兄さんたちはとても優しくて、一緒にお茶に行ったときも、将来ミュージカル俳優になるためにはどうしたらいいか、親身になってアドバイスしてくれました。その環境がうれしかったですね。
だから今、子役と共演するときはなるべくコミュニケーションを取って、話をするようにしています。結構相談されるのが、変声期のこと。子どもの頃はボーイソプラノできれいに歌えていたのに、声変わりして自分の頭で思い描いていたのと違う声が出てくる。僕も本当にショックだったし、自信が消えて歌えなくなった時期があったんです。
子役のお母さんたちからもよく「育三郎さんは変声期をどう過ごされたんですか」と相談されますが、自分の経験から「無理をしないこと」とアドバイスします。僕は変声期のタイミングでクラシックに出会ったので、勉強する期間に充てました。