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演劇界で初めて文化勲章を受章した俳優の森繁久彌さんが10日午前8時16分、風邪発熱のため入院加療中だった都内の病院で老衰のため死去した。96歳だった。
森繁さんは大正2(1913)年、大阪府枚方市生まれ。俳優として戦後半世紀以上にわたって芸能界の第一線で活躍し、1967年に初演したブロードウェイミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』では20年連続主演を務め、日本ミュージカル史上で最多上演(当時)となる900回を達成した。
森繁さんへの哀悼コメント
■森光子
お元気になられたとお聞きしておりましたのに、突然の訃報に驚いております。私のことを「みっちゃん、みっちゃん」といつも呼んで下さった、座のじ(森繁さん)のお声、嬉しそうな笑顔…もうお会いできないと思うと、たまらなく寂しいです。数々の舞台、映画の思い出が尽きません。本当にありがとうございました。
■谷啓
森繁さんとは、いろいろな場面でお会いしていますが、思い出深いのはやはり『屋根の上のヴァイオリン弾き』でご一緒させていただいたことです。コメディーの先輩、仲間が次々いってしまうのが、やりきれません。ご冥福をお祈りいたします。
■市村正親
非常にショックです。僕が21歳の時から森繁さんとは面識がありました。後にまさか自分が森繁さんの代表作である『屋根の上のヴァイオリン弾き』でテヴィエ役をやらせて頂く事になるとは思いもしませんでした。森繁さんの偉大なところは同じ役をやらせて頂いて、身にしみてわかります。森繁さんが魂を削って作られた『屋根の上のヴァイオリン弾き』。僕のテヴィエの中には森繁さんの魂が詰まっています。ご冥福をお祈りします!
■加藤登紀子(森繁さんが作詞作曲された「知床旅情」を歌唱)
百歳まで生きてほしかった! 本当に残念です。老いてますます可愛くて素敵なおじいちゃんでした。たくさんの思い出、たくさんの素晴らしい言葉をありがとうございました。「うたうように語り、語るようにうたえ」それが森繁さんの心でした。
弾き語りで歌った「ひとり寝の子守歌」を聞いてくださったとき、「僕と同じ心で歌っているね」と言ってくださったのが初めての出会いでした。その後、「知床旅情」を歌わせていただきました。
何度も一緒に声を合わせて歌い、感じたのは大陸の大きさと、日本人の優しさ、男のロマンそして色気でした。もうお会いできないと思うと本当にさみしいです。天国で心行くまで、もうひとつの人生を楽しんでください。ご冥福をお祈りします。
■司葉子
最後にお会いしたのは、ご入院前に「大正会」、現在の「遊遊会」の会合が最後でした。思い出は言い尽くせませんが、『夫婦善哉』でまさしくリアルな喜劇を作り出し、東宝映画のカラーを変えたと思います。『社長シリーズ』を始め、多くの作品でご一緒させていただきました。粋な遊び人でいらしたので、その人生経験が役をふくらませていったのだと思います。新人時代には、森繁の周りの10メートル以内には近づくなとからかわれました。まさに映画そのものが人生のような人でした。
さびしいけれど、スケールの大きい、中身の濃い、人生を生きられたので、本当に、安らかにお休みくださいと、言いたいです。ご冥福をお祈りいたします。
ご冥福をお祈りします・・・「おくやみ・訃報」記事
演劇界で初めて文化勲章を受章した俳優の森繁久彌さんが10日午前8時16分、風邪発熱のため入院加療中だった都内の病院で老衰のため死去した。96歳だった。
森繁さんは大正2(1913)年、大阪府枚方市生まれ。俳優として戦後半世紀以上にわたって芸能界の第一線で活躍し、1967年に初演したブロードウェイミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』では20年連続主演を務め、日本ミュージカル史上で最多上演(当時)となる900回を達成した。
森繁さんへの哀悼コメント
■森光子
お元気になられたとお聞きしておりましたのに、突然の訃報に驚いております。私のことを「みっちゃん、みっちゃん」といつも呼んで下さった、座のじ(森繁さん)のお声、嬉しそうな笑顔…もうお会いできないと思うと、たまらなく寂しいです。数々の舞台、映画の思い出が尽きません。本当にありがとうございました。
■谷啓
森繁さんとは、いろいろな場面でお会いしていますが、思い出深いのはやはり『屋根の上のヴァイオリン弾き』でご一緒させていただいたことです。コメディーの先輩、仲間が次々いってしまうのが、やりきれません。ご冥福をお祈りいたします。
■市村正親
非常にショックです。僕が21歳の時から森繁さんとは面識がありました。後にまさか自分が森繁さんの代表作である『屋根の上のヴァイオリン弾き』でテヴィエ役をやらせて頂く事になるとは思いもしませんでした。森繁さんの偉大なところは同じ役をやらせて頂いて、身にしみてわかります。森繁さんが魂を削って作られた『屋根の上のヴァイオリン弾き』。僕のテヴィエの中には森繁さんの魂が詰まっています。ご冥福をお祈りします!
■加藤登紀子(森繁さんが作詞作曲された「知床旅情」を歌唱)
百歳まで生きてほしかった! 本当に残念です。老いてますます可愛くて素敵なおじいちゃんでした。たくさんの思い出、たくさんの素晴らしい言葉をありがとうございました。「うたうように語り、語るようにうたえ」それが森繁さんの心でした。
弾き語りで歌った「ひとり寝の子守歌」を聞いてくださったとき、「僕と同じ心で歌っているね」と言ってくださったのが初めての出会いでした。その後、「知床旅情」を歌わせていただきました。
何度も一緒に声を合わせて歌い、感じたのは大陸の大きさと、日本人の優しさ、男のロマンそして色気でした。もうお会いできないと思うと本当にさみしいです。天国で心行くまで、もうひとつの人生を楽しんでください。ご冥福をお祈りします。
■司葉子
最後にお会いしたのは、ご入院前に「大正会」、現在の「遊遊会」の会合が最後でした。思い出は言い尽くせませんが、『夫婦善哉』でまさしくリアルな喜劇を作り出し、東宝映画のカラーを変えたと思います。『社長シリーズ』を始め、多くの作品でご一緒させていただきました。粋な遊び人でいらしたので、その人生経験が役をふくらませていったのだと思います。新人時代には、森繁の周りの10メートル以内には近づくなとからかわれました。まさに映画そのものが人生のような人でした。
さびしいけれど、スケールの大きい、中身の濃い、人生を生きられたので、本当に、安らかにお休みくださいと、言いたいです。ご冥福をお祈りいたします。
ご冥福をお祈りします・・・「おくやみ・訃報」記事
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2009/11/10