元マツダのエンジニアで、『ロードスター』『RX-7』などのスポーツカーの開発に携わってきた貴島孝雄氏が、11日放送のBS日テレ『おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE!』(毎週土曜 後9:00)に出演。エンジニア人生と、関わったマシンに対するこだわりと愛情を熱く語る。
著名人ゲストだけでなく、クルマを支え、クルマをこよなく愛する人たちの熱い思いも伝えてきた『愛車遍歴』。今回のゲストである貴島氏は、1989年発売の初代から『ロードスター』の開発に関わり続け、“Mr.ロードスター”と呼ばれた伝説的開発者。そんなレジェンドの登場に、MCのおぎやはぎ・小木博明は「開発者大好きなんです。こだわりを聞くのって、楽しいじゃない?」と、のっけからソワソワ気味。
貴島氏は、18歳でマツダに入社し、40年以上もクルマの設計、開発に携わってきたエンジニア。少年時代から、動くものの動力、構造に興味津々だったという。教科書は、家の前に止まった故障車。「下へ潜って構造を見るのが好きでした」と、子どもらしからぬ感性に、矢作兼も「下へ潜ってかくれんぼなら分かるけど…」と驚きを隠せない。
入社当初は商用車の設計・開発を担当したが、ある時転機が。1978年発売の『サバンナ RX-7』の開発チームに参加することに。上司同士が争奪合戦をするほど引っ張りだこだったという貴島氏は、その手腕を、スポーツカーの部門でいかんなく発揮していく。
開発にかける情熱、クルマに愚直に向き合う姿勢から、「鬼の“鬼島”」と恐れられたという同氏。「技術には妥協はダメだと。技術は裏切らないんですよ。そこをないがしろにして、頑張ったんだからいいよという話があるけど、それじゃダメだと。絶対許さなかった」というその精神が、後に開発主査まで務める『ロードスター』の精神として形になっていく。
1991年の『ル・マン 24時間レース』では、『マツダ 787B』が日本車として初優勝。設定がうまくいかなかったマシンに貴島氏が手を加え、それが功を奏しての快挙だったが、後日とんでもない事実が明らかに…。「そこが原因って分かるでしょう?これ、貴島がやったってことになる」と、天国と地獄をわけた、ヒヤヒヤの後日談を語る。
★YouTube公式チャンネル「ORICON NEWS」
著名人ゲストだけでなく、クルマを支え、クルマをこよなく愛する人たちの熱い思いも伝えてきた『愛車遍歴』。今回のゲストである貴島氏は、1989年発売の初代から『ロードスター』の開発に関わり続け、“Mr.ロードスター”と呼ばれた伝説的開発者。そんなレジェンドの登場に、MCのおぎやはぎ・小木博明は「開発者大好きなんです。こだわりを聞くのって、楽しいじゃない?」と、のっけからソワソワ気味。
貴島氏は、18歳でマツダに入社し、40年以上もクルマの設計、開発に携わってきたエンジニア。少年時代から、動くものの動力、構造に興味津々だったという。教科書は、家の前に止まった故障車。「下へ潜って構造を見るのが好きでした」と、子どもらしからぬ感性に、矢作兼も「下へ潜ってかくれんぼなら分かるけど…」と驚きを隠せない。
入社当初は商用車の設計・開発を担当したが、ある時転機が。1978年発売の『サバンナ RX-7』の開発チームに参加することに。上司同士が争奪合戦をするほど引っ張りだこだったという貴島氏は、その手腕を、スポーツカーの部門でいかんなく発揮していく。
開発にかける情熱、クルマに愚直に向き合う姿勢から、「鬼の“鬼島”」と恐れられたという同氏。「技術には妥協はダメだと。技術は裏切らないんですよ。そこをないがしろにして、頑張ったんだからいいよという話があるけど、それじゃダメだと。絶対許さなかった」というその精神が、後に開発主査まで務める『ロードスター』の精神として形になっていく。
1991年の『ル・マン 24時間レース』では、『マツダ 787B』が日本車として初優勝。設定がうまくいかなかったマシンに貴島氏が手を加え、それが功を奏しての快挙だったが、後日とんでもない事実が明らかに…。「そこが原因って分かるでしょう?これ、貴島がやったってことになる」と、天国と地獄をわけた、ヒヤヒヤの後日談を語る。
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2024/05/09