デザイナーの山本寛斎さんが21日、急性骨髄性白血病のため亡くなった。76歳。27日、娘で女優の山本未來(45)が自身のインスタグラムで報告し、その後、寛斎さんの公式サイトでも伝えられた。寛斎さんは今年3月、白血病での闘病を告白していた。
未來は「父、山本寛齋は去る7月21日、私を含め家族が看取る中、安らかに76歳にてこの世を旅立ちました。私にとって、父はエネルギッシュで明るいことはもとより、穏やかで、寛大で、人懐っこく、コミュニケーションを大切にし、無償の愛を与えてくれた存在でした」と寛斎さんの訃報を伝えた。
続けて「また人生を通して『時に折れることがあろうと、常に前向きに、果敢に挑戦し続けることが明るい未来に繋がる』ということを教えてくれました」と振り返り、「今後も女優業を継続する傍ら、2020年、年初より加わりました山本寛齋率いる『KANSAI SUPER STUDIO』にて父・寛齋の『元気』をスタッフと共に継承していきたいと思っておりますので、よろしくお願い申し上げます」と父の遺志を引き継ぐとしている。
寛斎さんの公式サイトでは「闘病中も、皆様にもう一度『元気』な山本寛斎の姿をお見せしたいという本人の強い意志のもと、前向きに治療に励む傍ら、クリエーションに対する熱い思いをスタッフに語っておりました。『人間は、無尽蔵のエネルギーを持っている。』どんなに苦しい時であっても、その気持ちを忘れずに、果敢に挑戦し続けました」と伝え、「長きにわたり、山本寛斎を応援して下さった皆様に、心より感謝を申し上げますとともに、謹んでお知らせいたします」と述べている。
寛斎さんは1944年生まれ。71年、ロンドンにおいて日本人として初めてファッションショーを開催。74年から92年までパリ・ニューヨーク・東京コレクションに参加し、世界的デザイナーとしての地位を確立した。デヴィッド・ボウイ、エルトン・ジョン、スティーヴィー・ワンダーらとも交流を持ち、既成概念を突き崩すアヴァンギャルドなデザインは、時代に敏感な若者から圧倒的な支持を獲得した。
ライブなどイベントプロデューサーとしても活躍し、2008年G8洞爺湖サミットの会場・社交行事の総合プロデュース、「京成スカイライナー」新型車両の内装・外装のデザイン(2010年度グッドデザイン賞、2011年度ブルーリボン賞受賞)など、幅広いジャンルを手がけた。
未來は「父、山本寛齋は去る7月21日、私を含め家族が看取る中、安らかに76歳にてこの世を旅立ちました。私にとって、父はエネルギッシュで明るいことはもとより、穏やかで、寛大で、人懐っこく、コミュニケーションを大切にし、無償の愛を与えてくれた存在でした」と寛斎さんの訃報を伝えた。
続けて「また人生を通して『時に折れることがあろうと、常に前向きに、果敢に挑戦し続けることが明るい未来に繋がる』ということを教えてくれました」と振り返り、「今後も女優業を継続する傍ら、2020年、年初より加わりました山本寛齋率いる『KANSAI SUPER STUDIO』にて父・寛齋の『元気』をスタッフと共に継承していきたいと思っておりますので、よろしくお願い申し上げます」と父の遺志を引き継ぐとしている。
寛斎さんの公式サイトでは「闘病中も、皆様にもう一度『元気』な山本寛斎の姿をお見せしたいという本人の強い意志のもと、前向きに治療に励む傍ら、クリエーションに対する熱い思いをスタッフに語っておりました。『人間は、無尽蔵のエネルギーを持っている。』どんなに苦しい時であっても、その気持ちを忘れずに、果敢に挑戦し続けました」と伝え、「長きにわたり、山本寛斎を応援して下さった皆様に、心より感謝を申し上げますとともに、謹んでお知らせいたします」と述べている。
寛斎さんは1944年生まれ。71年、ロンドンにおいて日本人として初めてファッションショーを開催。74年から92年までパリ・ニューヨーク・東京コレクションに参加し、世界的デザイナーとしての地位を確立した。デヴィッド・ボウイ、エルトン・ジョン、スティーヴィー・ワンダーらとも交流を持ち、既成概念を突き崩すアヴァンギャルドなデザインは、時代に敏感な若者から圧倒的な支持を獲得した。
ライブなどイベントプロデューサーとしても活躍し、2008年G8洞爺湖サミットの会場・社交行事の総合プロデュース、「京成スカイライナー」新型車両の内装・外装のデザイン(2010年度グッドデザイン賞、2011年度ブルーリボン賞受賞)など、幅広いジャンルを手がけた。
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2020/07/27