来年に還暦&デビュー40周年を迎える俳優の京本政樹(59)が17日、東京・三越前の三重テラスで自身が監督、音楽、主演を務める三重県四日市市のPRビデオの記者発表会に参加した。
四日市市は2年後の市政123周年に向け、「1、2、3、四日市」を合言葉にPR事業を展開し、京本にPRビデオの製作を依頼。監督、音楽、主演という3役について京本は「本当にやりました。細かい効果音入れまで」と明かし「これをやっていたため、僕、ワールドカップ見てないんです」と恨めしそうに森智広市長をチラリ。森市長は「すみません」と頭をかいていた。それでも京本は「久しぶりに、この何ヶ月かは充実してました。また、あらためて勉強になりました」と振り返りながら、おなじみの姿も相変わらずで「まだ、ギリギリ行ける。前髪に合う間に長編を撮りたい」と意欲も見せた。3役をこなすため、ギャラも3倍かと思いきや「持ち出しですよ。作業時間があまりにも…。凝り性なんですよね〜」と苦笑いを浮かべた。
内容は四日市市マスコットキャラクターのこにゅうどうくんが、町娘役の風谷南友を連れ去ろうとするところを京本が救うというもの。当初はこにゅうどうくんを必殺仕事人ばりに「吊ってほしい」という要望が市から伝えられたという。京本自身が四日市では絶大な人気を誇るこにゅうどうくんを吊るのは抵抗があり、かわいく小突いて“おしおき”となったことも語っていた。
また、昨年7月に亡くなった作曲家の平尾昌晃さんとの知られざるエピソードも告白。ゴルフ仲間でもあり交友はあるが、京本はシンガーソングライターとして活動しているため、同期の歌手仲間と違い、平尾さんの楽曲を歌うことはなかった。「去年の4月ぐらいにお電話をいただいた。『平尾先生の曲を歌っていない』とずっと話していた。それを平尾先生も、すごく分かってくれていた。『僕は詞を書けないから京本くんが書いて、僕が曲をつけるのは、どうだろう』という電話がかかってきた。それで急に電話口で住所を言ってくれた」と明かす。
すぐさま、徹夜で詞を書き、5編ほど送付した。「そしたら、すぐに電話かかってきて『ありがとう』と言われた。3ヶ月ぐらい楽しみに待っていて、そしたら電話連絡来たと思ったら訃報でした…。いわゆる未完成に終わってしまった」と寂しそうな表情を浮かべた。そして「自分が作った『必殺仕事人』の音楽は平尾先生の名曲を聴きまくって作った」と平尾さんを偲んでいた。来年1月で還暦&40周年。「新元号にもなる。その辺を目指して何か新しいCDでも」と平尾イズムの継承へ力を込めていた。
囲み取材では、その変わらぬ姿にも注目が。「まだ動ける。無茶なこともしている。この間も相当激しいアクションをやった。自らの限界に挑戦している」と衰え知らず。「これ(前髪を垂らすスタイル)になりきれる間は何年か、頑張ってみようという精神がより強まった」と気持ちを新たにしながらも「ふと振り返ってみると僕が教わった師匠や先輩が、みんないなくなってしまった。先代があって僕がいる。後輩たちも育ってきていますけど、その前で自分が殺陣や芝居を後何年、見せられるのかなというのを常に考える」と自身の年齢を噛み締めた。それでも「赤いちゃんちゃんこを着るのは嫌」と本音も語り、笑わせていた。
四日市市は2年後の市政123周年に向け、「1、2、3、四日市」を合言葉にPR事業を展開し、京本にPRビデオの製作を依頼。監督、音楽、主演という3役について京本は「本当にやりました。細かい効果音入れまで」と明かし「これをやっていたため、僕、ワールドカップ見てないんです」と恨めしそうに森智広市長をチラリ。森市長は「すみません」と頭をかいていた。それでも京本は「久しぶりに、この何ヶ月かは充実してました。また、あらためて勉強になりました」と振り返りながら、おなじみの姿も相変わらずで「まだ、ギリギリ行ける。前髪に合う間に長編を撮りたい」と意欲も見せた。3役をこなすため、ギャラも3倍かと思いきや「持ち出しですよ。作業時間があまりにも…。凝り性なんですよね〜」と苦笑いを浮かべた。
内容は四日市市マスコットキャラクターのこにゅうどうくんが、町娘役の風谷南友を連れ去ろうとするところを京本が救うというもの。当初はこにゅうどうくんを必殺仕事人ばりに「吊ってほしい」という要望が市から伝えられたという。京本自身が四日市では絶大な人気を誇るこにゅうどうくんを吊るのは抵抗があり、かわいく小突いて“おしおき”となったことも語っていた。
また、昨年7月に亡くなった作曲家の平尾昌晃さんとの知られざるエピソードも告白。ゴルフ仲間でもあり交友はあるが、京本はシンガーソングライターとして活動しているため、同期の歌手仲間と違い、平尾さんの楽曲を歌うことはなかった。「去年の4月ぐらいにお電話をいただいた。『平尾先生の曲を歌っていない』とずっと話していた。それを平尾先生も、すごく分かってくれていた。『僕は詞を書けないから京本くんが書いて、僕が曲をつけるのは、どうだろう』という電話がかかってきた。それで急に電話口で住所を言ってくれた」と明かす。
すぐさま、徹夜で詞を書き、5編ほど送付した。「そしたら、すぐに電話かかってきて『ありがとう』と言われた。3ヶ月ぐらい楽しみに待っていて、そしたら電話連絡来たと思ったら訃報でした…。いわゆる未完成に終わってしまった」と寂しそうな表情を浮かべた。そして「自分が作った『必殺仕事人』の音楽は平尾先生の名曲を聴きまくって作った」と平尾さんを偲んでいた。来年1月で還暦&40周年。「新元号にもなる。その辺を目指して何か新しいCDでも」と平尾イズムの継承へ力を込めていた。
囲み取材では、その変わらぬ姿にも注目が。「まだ動ける。無茶なこともしている。この間も相当激しいアクションをやった。自らの限界に挑戦している」と衰え知らず。「これ(前髪を垂らすスタイル)になりきれる間は何年か、頑張ってみようという精神がより強まった」と気持ちを新たにしながらも「ふと振り返ってみると僕が教わった師匠や先輩が、みんないなくなってしまった。先代があって僕がいる。後輩たちも育ってきていますけど、その前で自分が殺陣や芝居を後何年、見せられるのかなというのを常に考える」と自身の年齢を噛み締めた。それでも「赤いちゃんちゃんこを着るのは嫌」と本音も語り、笑わせていた。
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2018/07/17