アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』『ソードアート・オンライン』、NHK連続テレビ小説『花子とアン』など数々の人気作品のサウンドトラック、あるいは女性3人組ボーカルユニット・Kalafinaのプロデュースなどで知られる作曲家の梶浦由記氏(52)。今年2月、デビュー当時より所属してきた事務所から独立を発表し心機一転となったが、今年はキャリア25周年の節目でもある。30日に千葉・舞浜アンフィシアターでスタートする3年ぶりのソロツアー『Yuki Kajiura LIVE vol.#14 “25th Anniversary Special”』を目前に控えた梶浦氏に、改めて自身がブレイクするきっかけとなったサントラの世界との出会いや歩みを振り返ってもらった。
●「少しグレてた」デビュー当時 J-POP的表現との葛藤
Kalafinaでの美しいハーモニーやメロディーから、フルオーケストラのアレンジまで多彩な音色を操る梶浦氏だが、これまで専門的な音楽教育を受けたことはなく、独学で曲を書いてきた。しかし、サントラを手がけるようになるまでは、楽器というものにほとんど興味を示したことがなかったという。そんな梶浦氏の音楽的な原体験は、幼少期に移り住んだ異国の地・ドイツで触れた“歌”だった。
「父親が、自分で歌うほどオペラ・歌曲が好きで、それらを聴くためにドイツ転勤がある会社に務めてたくらいでした。そんな家庭だったので自然と歌が好きになっていきましたね。私は父の伴奏をするために小さい頃からピアノを習っていたのですが、私が小学2年の時、家族でドイツに移り住むことになりまして。気軽に通える優秀な“おらが町”のオペラハウスが近くにある、恵まれた環境でした」。
クラシック音楽の本場で奏でられる音を日々吸収しながら、兄の影響でビートルズやクイーン、アバなど他ジャンルの歌にも強く魅せられた。一方、日本の音楽は中学2年の終わりに帰国した後も本格的に触れることはなく、大学から一般企業へ就職するかたわら続けた音楽活動もJ-POP的なアプローチとは異なる表現を追求していた。それだけに1993年、バンド・See-Sawのメンバーとしてデビューした直後は、J-POPシーンに適応するよう要求されることにストレスを感じたという。
「正直、デビュー当時は少しグレてましたね。アマチュアながらにこうしたいというものがあったんですが、そういうものは一旦無しにして『ガールポップ』をやろう、という流れになってしまったので。自分たちが拙(つたな)いながらこだわってきたアレンジもただハッピーな感じになって違和感があったり。
じゃあ自分たちでミュージシャン集めて仕切ってやれるかといえば、当時そんな実力は当然ないのですが。もちろん皆さん認めてはくれていたんですけど、やっぱり自分が行きたい方向とは違うレールを一生懸命敷いてくださっていた感じでしたね。今思うと、そのレールを自分がちゃんと走ればいろんなことができたはずなんですが、当時はもういいよって、音楽を斜めに見てました」。
●サウンドトラックと出会い「第2の人生が始まった」
そんなもどかしさの日々から梶浦氏を解放してくれたのが、サウンドトラックとの出会いだった。初めて手がけたのは市川隼監督の映画『東京兄妹』(95年)。「サントラの世界に入ってようやく視界が開けた」と梶浦氏は明かすが、最初はサントラが何なのか全く知らなかったそうで、「ずっと歌だけやって、インストゥルメンタルという分野をほとんど知らずに来てしまったので…。テレビも見ない家庭だったし、映画もドラマも全く見てないですから、そもそもサントラというものがこの世にある認識がなかった」と今の姿からは信じがたい状態だった。
右も左も分からない梶浦氏に対し、彼女に才能を感じた市川監督はスタジオに自ら足を運び、梶浦氏に助言を与え続けたそうだ。「スタジオで、人が亡くなってお葬式や煙突から煙が出てるシーンを見せられて、『ピアノ弾いてごらん』て。そして、その場で弾いた曲を聴いて『それで良いんだよ』って励ましてくれた。その時初めて、サウンドトラックって映像に音楽で気持ちを乗せるものなんだと知って衝撃だったんです。そこから第2の人生が始まったという感じでしたね」。
J-POPの世界では味わえなかった音楽への自由を得て胸を躍らせたが、今度は自由であるがゆえの苦労も知った。
「See-Sawの頃は、例えばエニグマとか『ニューエイジ』的なニッチなジャンルは、好きで聴くだけで、作っちゃいけない音楽だと思っていたんですよ。ところが、サントラを始めたらタブーにしてたそれらのジャンル感を自分から全部引っ張り出して、フル活用しても全く足りなかったんです。やってはいけないジャンルとして『自ら封印した』くらいの奢った気持ちだったのが、急に1ヶ月で30曲書いてみたいな話になって、自分の中をカラカラになるまで全部出し切っても書ききれない」。
歌だけを追い求めてきた梶浦氏は突如、古今東西の楽器を相手に作曲・編曲全てこなさなければならない世界に放り出された。その労苦は想像に難くないが、「これまで勉強のために音楽聴いたことなんてなかったんですが、その時は大量にサントラやクラシックのCDを買って、片っ端から聴いて真似していくところから初めていきました」と、文字通りの猛勉強で新境地への扉を叩いた。
●『空の境界』で得た手応え アニメのサントラで学んだこと
作曲家として歩み始めた梶浦氏はその後、アニメの世界と出会ったことで、サントラのクリエイターとして手応えをより確かなものにする。
「アニメ特有のある種大げさな表現、テンションの高さやファンタジックな部分がオペラの世界観と似てたんですよ」と、自身のDNAをさらに発揮していい世界がそこには広がっていた。「昔、ドイツのオペラハウスで感じたあの感情の波を音楽で表現しても良いんだというのがすごく嬉しくて、これか、これをやって良いんだって。逆にアニメではそれをやらないと演出に負けてしまうんですよ」。
アニメで初めてサントラを手がけた『EAT-MAN』(97年)や『NOIR』(01年)などの作品では、映像と戦いを仕掛け合うような音の存在感が魅力的だが、「それらの作品でご一緒した真下(耕一)監督はすごく自由にやらせてくれました。ただ、やっぱり当時書いた曲は1曲としての完成度を求めてしまっていて、サントラとしてはうるさかったですね」と若書きゆえの至らなさも多かったと振り返る。
一方で近年『まどか☆マギカ』『ソードアート・オンライン』『Fate』などの作品ではガラリと作風が変わり、映像を自然なグラデーションで繋いでいく美しさが際立つ。その転機となった作品として梶浦氏は、2007年からシリーズ公開された劇場アニメ『空の境界』を挙げてくれた。
「やはり『空の境界』で本格的に自分のサントラ人生始まったなと思いました。あの時は、半分くらいはオーダーをもらいつつ、半分は自分に任せていただいて、演出もやらせてもらった感覚でした。例えば『あ、このシーンかっこいい』と思ってすごく良い曲を書いても、その後にもう一回クライマックスが来てしまい、やりすぎた、ここでテンションをいたずらに上げすぎると次のピークが全く盛り上がらなくなる、書き直さねば!となるわけです。『空の境界』ではそういう失敗や発見を自分の中で何度も何度も体験しました」。
梶浦氏は「サウンドトラックで一番大事なことは“良い曲”を書くことではない」という学びをこの作品で得たと話す。「作品一本を通して、一番高いところはどこかというのを演出家のように判断し、ここに至るために音楽は何をすべきかというプランを最初から最後まで立てないと、曲を書いちゃいけないんだって学びました。本当にかけがえのない経験をさせていただいたと思っています」。
●「才能なんてない」淡々と歩む音楽の道
結果として、デビュー当時に苦い思いもしたSee-Sawでは『機動戦士ガンダム SEED』のED曲「あんなに一緒だったのに」(02年)などの楽曲でヒットを飛ばし、『空の境界』の主題歌プロジェクトとして始動したKalafinaをプロデューサーとしてブレイクに導くなど、梶浦氏はサントラをきっかけに多彩なプロジェクトで成功を収めてきた。
四半世紀に及ぶキャリアで、音楽家として様々な“顔”を手にしたが、「See-Sawでのデビューも遅く、作曲家としても遅咲き。でも、いろんな人生を少しずつ生きてる感覚で面白いです」と、本人はどこか他人事のようにひょうひょうと語る。自分の才能に奢らず淡々と努力する姿が印象的だと伝えると「才能なんてないですよ!」と笑いとばした。
「自分に才能があるなんて思ったことは一度もないです。ただ色々ラッキーだったなと。私、仕事において自分にしかできないことなんてないと思ってるんです。にもかかわらず私が携わらせていただけているのはただ幸福でしかないし、一期一会だからこそ全力で作品に貢献したいし、精一杯楽しみたいという思いだけです」。
梶浦氏は今後の音楽活動をどう展望しているのだろう。勇んで聞いてみたが「今、やりたいことが山ほどあるかと言えばそうではないです。ですが音楽をやり続ける限り、もう満足ってことには絶対ならないですよ」とマイペース。
「やりたいことってそんな仰々しいことではなくて、例えばレコーディングでギターさんが良いカッティングをしてくれた、それで新しい曲のアイデアが芽生えたり。単純なところから、またやりたいことが始まってしまうからキリがないですよ。楽しいことをすればするほど、いつの間にかやりたいことって増えていくものです」。
30日からのツアーでは、ファンも梶浦氏の新たな船出を待ちわびているだろう。「サントラの仕事をしていると持ち曲だけはやたらと多いので、毎回ライブで新曲を披露できるのはいいですね。自分の音楽を最高のプレイヤーが演奏してくれて、わざわざお金を払って聴きに来てくれた方々が、幸せな顔をしてくれる。ライブは自分にとっては仕事というよりご褒美に近いですね(笑)」。
●「少しグレてた」デビュー当時 J-POP的表現との葛藤
Kalafinaでの美しいハーモニーやメロディーから、フルオーケストラのアレンジまで多彩な音色を操る梶浦氏だが、これまで専門的な音楽教育を受けたことはなく、独学で曲を書いてきた。しかし、サントラを手がけるようになるまでは、楽器というものにほとんど興味を示したことがなかったという。そんな梶浦氏の音楽的な原体験は、幼少期に移り住んだ異国の地・ドイツで触れた“歌”だった。
「父親が、自分で歌うほどオペラ・歌曲が好きで、それらを聴くためにドイツ転勤がある会社に務めてたくらいでした。そんな家庭だったので自然と歌が好きになっていきましたね。私は父の伴奏をするために小さい頃からピアノを習っていたのですが、私が小学2年の時、家族でドイツに移り住むことになりまして。気軽に通える優秀な“おらが町”のオペラハウスが近くにある、恵まれた環境でした」。
クラシック音楽の本場で奏でられる音を日々吸収しながら、兄の影響でビートルズやクイーン、アバなど他ジャンルの歌にも強く魅せられた。一方、日本の音楽は中学2年の終わりに帰国した後も本格的に触れることはなく、大学から一般企業へ就職するかたわら続けた音楽活動もJ-POP的なアプローチとは異なる表現を追求していた。それだけに1993年、バンド・See-Sawのメンバーとしてデビューした直後は、J-POPシーンに適応するよう要求されることにストレスを感じたという。
「正直、デビュー当時は少しグレてましたね。アマチュアながらにこうしたいというものがあったんですが、そういうものは一旦無しにして『ガールポップ』をやろう、という流れになってしまったので。自分たちが拙(つたな)いながらこだわってきたアレンジもただハッピーな感じになって違和感があったり。
じゃあ自分たちでミュージシャン集めて仕切ってやれるかといえば、当時そんな実力は当然ないのですが。もちろん皆さん認めてはくれていたんですけど、やっぱり自分が行きたい方向とは違うレールを一生懸命敷いてくださっていた感じでしたね。今思うと、そのレールを自分がちゃんと走ればいろんなことができたはずなんですが、当時はもういいよって、音楽を斜めに見てました」。
●サウンドトラックと出会い「第2の人生が始まった」
そんなもどかしさの日々から梶浦氏を解放してくれたのが、サウンドトラックとの出会いだった。初めて手がけたのは市川隼監督の映画『東京兄妹』(95年)。「サントラの世界に入ってようやく視界が開けた」と梶浦氏は明かすが、最初はサントラが何なのか全く知らなかったそうで、「ずっと歌だけやって、インストゥルメンタルという分野をほとんど知らずに来てしまったので…。テレビも見ない家庭だったし、映画もドラマも全く見てないですから、そもそもサントラというものがこの世にある認識がなかった」と今の姿からは信じがたい状態だった。
右も左も分からない梶浦氏に対し、彼女に才能を感じた市川監督はスタジオに自ら足を運び、梶浦氏に助言を与え続けたそうだ。「スタジオで、人が亡くなってお葬式や煙突から煙が出てるシーンを見せられて、『ピアノ弾いてごらん』て。そして、その場で弾いた曲を聴いて『それで良いんだよ』って励ましてくれた。その時初めて、サウンドトラックって映像に音楽で気持ちを乗せるものなんだと知って衝撃だったんです。そこから第2の人生が始まったという感じでしたね」。
J-POPの世界では味わえなかった音楽への自由を得て胸を躍らせたが、今度は自由であるがゆえの苦労も知った。
「See-Sawの頃は、例えばエニグマとか『ニューエイジ』的なニッチなジャンルは、好きで聴くだけで、作っちゃいけない音楽だと思っていたんですよ。ところが、サントラを始めたらタブーにしてたそれらのジャンル感を自分から全部引っ張り出して、フル活用しても全く足りなかったんです。やってはいけないジャンルとして『自ら封印した』くらいの奢った気持ちだったのが、急に1ヶ月で30曲書いてみたいな話になって、自分の中をカラカラになるまで全部出し切っても書ききれない」。
歌だけを追い求めてきた梶浦氏は突如、古今東西の楽器を相手に作曲・編曲全てこなさなければならない世界に放り出された。その労苦は想像に難くないが、「これまで勉強のために音楽聴いたことなんてなかったんですが、その時は大量にサントラやクラシックのCDを買って、片っ端から聴いて真似していくところから初めていきました」と、文字通りの猛勉強で新境地への扉を叩いた。
●『空の境界』で得た手応え アニメのサントラで学んだこと
作曲家として歩み始めた梶浦氏はその後、アニメの世界と出会ったことで、サントラのクリエイターとして手応えをより確かなものにする。
「アニメ特有のある種大げさな表現、テンションの高さやファンタジックな部分がオペラの世界観と似てたんですよ」と、自身のDNAをさらに発揮していい世界がそこには広がっていた。「昔、ドイツのオペラハウスで感じたあの感情の波を音楽で表現しても良いんだというのがすごく嬉しくて、これか、これをやって良いんだって。逆にアニメではそれをやらないと演出に負けてしまうんですよ」。
アニメで初めてサントラを手がけた『EAT-MAN』(97年)や『NOIR』(01年)などの作品では、映像と戦いを仕掛け合うような音の存在感が魅力的だが、「それらの作品でご一緒した真下(耕一)監督はすごく自由にやらせてくれました。ただ、やっぱり当時書いた曲は1曲としての完成度を求めてしまっていて、サントラとしてはうるさかったですね」と若書きゆえの至らなさも多かったと振り返る。
一方で近年『まどか☆マギカ』『ソードアート・オンライン』『Fate』などの作品ではガラリと作風が変わり、映像を自然なグラデーションで繋いでいく美しさが際立つ。その転機となった作品として梶浦氏は、2007年からシリーズ公開された劇場アニメ『空の境界』を挙げてくれた。
「やはり『空の境界』で本格的に自分のサントラ人生始まったなと思いました。あの時は、半分くらいはオーダーをもらいつつ、半分は自分に任せていただいて、演出もやらせてもらった感覚でした。例えば『あ、このシーンかっこいい』と思ってすごく良い曲を書いても、その後にもう一回クライマックスが来てしまい、やりすぎた、ここでテンションをいたずらに上げすぎると次のピークが全く盛り上がらなくなる、書き直さねば!となるわけです。『空の境界』ではそういう失敗や発見を自分の中で何度も何度も体験しました」。
梶浦氏は「サウンドトラックで一番大事なことは“良い曲”を書くことではない」という学びをこの作品で得たと話す。「作品一本を通して、一番高いところはどこかというのを演出家のように判断し、ここに至るために音楽は何をすべきかというプランを最初から最後まで立てないと、曲を書いちゃいけないんだって学びました。本当にかけがえのない経験をさせていただいたと思っています」。
●「才能なんてない」淡々と歩む音楽の道
結果として、デビュー当時に苦い思いもしたSee-Sawでは『機動戦士ガンダム SEED』のED曲「あんなに一緒だったのに」(02年)などの楽曲でヒットを飛ばし、『空の境界』の主題歌プロジェクトとして始動したKalafinaをプロデューサーとしてブレイクに導くなど、梶浦氏はサントラをきっかけに多彩なプロジェクトで成功を収めてきた。
四半世紀に及ぶキャリアで、音楽家として様々な“顔”を手にしたが、「See-Sawでのデビューも遅く、作曲家としても遅咲き。でも、いろんな人生を少しずつ生きてる感覚で面白いです」と、本人はどこか他人事のようにひょうひょうと語る。自分の才能に奢らず淡々と努力する姿が印象的だと伝えると「才能なんてないですよ!」と笑いとばした。
「自分に才能があるなんて思ったことは一度もないです。ただ色々ラッキーだったなと。私、仕事において自分にしかできないことなんてないと思ってるんです。にもかかわらず私が携わらせていただけているのはただ幸福でしかないし、一期一会だからこそ全力で作品に貢献したいし、精一杯楽しみたいという思いだけです」。
梶浦氏は今後の音楽活動をどう展望しているのだろう。勇んで聞いてみたが「今、やりたいことが山ほどあるかと言えばそうではないです。ですが音楽をやり続ける限り、もう満足ってことには絶対ならないですよ」とマイペース。
「やりたいことってそんな仰々しいことではなくて、例えばレコーディングでギターさんが良いカッティングをしてくれた、それで新しい曲のアイデアが芽生えたり。単純なところから、またやりたいことが始まってしまうからキリがないですよ。楽しいことをすればするほど、いつの間にかやりたいことって増えていくものです」。
30日からのツアーでは、ファンも梶浦氏の新たな船出を待ちわびているだろう。「サントラの仕事をしていると持ち曲だけはやたらと多いので、毎回ライブで新曲を披露できるのはいいですね。自分の音楽を最高のプレイヤーが演奏してくれて、わざわざお金を払って聴きに来てくれた方々が、幸せな顔をしてくれる。ライブは自分にとっては仕事というよりご褒美に近いですね(笑)」。
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2018/06/29