先月10日に肺炎による心不全で亡くなった女優・森光子さん(享年92)の本葬が7日、東京・青山葬儀所にてしめやかに営まれ、黒柳徹子、みのもんた、和田アキ子、王貞治氏、森喜朗氏など各界の著名人や関係者が約1000人が参列した。ジャニーズ事務所からは弔辞を読んだ近藤真彦をはじめ、少年隊、SMAP、TOKIO、KinKi Kids、V6、嵐ら60人以上が参列。多くの人々に愛された“お母さん”森さんの最期には、涙と感謝が溢れた。
以下は主な著名人のコメント。
■近藤真彦
「森さんの誕生日にホテルのワンフロアを貸しきってジャニーズメンバーと楽しくお祝いしました。森さんは麻雀の席から離れず、東山(紀之)と一緒にずっと打ってましたね。自分の子供が生まれた時も一番に報告しました。コンサートや舞台などでお会いする時、いつも『あなたは優しい』と声を掛けてくださった。これからもそうしていきたいと思います。東山も笑顔なく、ずっと写真を見ていた。式中も黒柳徹子さんの隣に座り『本当に森さんがいなくなっちゃったんだね』と話してました。日本のお母さんであって、ジャニーズのお母さんでもありました。お客さんやファンを第一に思って、常に勉強をする姿勢を学んだ。ありがとうございました」
■志村けん
「とっても優しいお母さん、笑いをよく知っている方だった」
■加藤茶
「森さんとはコントで手の焼ける子供役として共演して、コント中にアドリブを言っていました。それを全部受けてくださって、僕たちも急な出来事で笑っちゃいました。終わったあとも和気あいあいとしていたな。元気で待ってて!」
■萩本欽一
「芸が深く気遣いの深い、そういう人でした。ありがとうって言える場を作ってくれず、だいたいお会いすると去り際に『もっとやりましょうね』って相手に合わせて相手の一番喜ぶ言葉を言って去っていく。外でお会いする時はきれいな言葉をお使いになるけど、家に遊びに来てくれた時とかは変な言葉をお使いになる。ギャグ、冗談、鼻歌の連発。素敵な部分を見させてもらった」
■浜木綿子
「改めて感動しました。努力の方ですからね。私が26歳の時の、初演の『放浪記』に出させてもらって、改めて感服しました。膨大なセリフを必死に覚えて、『努力する姿は誰かが見ててくれるから忘れちゃいけないですよね』って言葉が忘れられない」
■赤木春恵
「寂しいですね。亡くなってから日にちがありましたから少し落ち着きました。(森さんが)スカウトされて上京するまで、“みっちゃん”“あやちゃん”の付き合いでしたから。姉妹、肉親のように悲しい時も苦しかった時もつらい時も全部。ラジオ番組の公開放送もよく2人で出ていました。2人でアルバイトもしたし、スカウトの話も私のところに来て『あやちゃんどうしよう。東京に行って失敗したらどうしよう』って。もし本当に失敗しても大阪は迎え入れてくれるよって、そういう相談を受けたこともありました。普通の付き合いじゃなかった。申し伝えによると、私がとてもきれいだった時を知ってる人には会いたくない、衰えを見られたくないと言っていたよう。しょっちゅうFAXや手紙のやりとりはやってましたけど。70年近いお付き合いで、言葉に言い尽くせないものがあります」
■石井ふく子
「まだ、私の中に森さんはずっといます。母が森さんのことが好きで、笹の着物をプレゼントしていた。毎年お正月は私の実家で過ごしていました。10月に最後にお会いして『ごめんなさい。悔しいです』と謝れられた。たぶん、毎回差し入れをもらっていたので今回用意できなくてごめんなさいと言ったのだと。悔しいは、『放浪記』に出れなくなったことを悔やんでいたんだと思います。森さんの素敵な顔が私の中に残っている。あの小さい体がとても大きく感じます。さようならではなく、またねと言いたいです」
■左とん平
「映画でずいぶんお世話になりました。順番ですからね。でも寂しい人だったんですかね…。うちに帰ったら寂しかったんじゃないですかね」
以下は主な著名人のコメント。
■近藤真彦
「森さんの誕生日にホテルのワンフロアを貸しきってジャニーズメンバーと楽しくお祝いしました。森さんは麻雀の席から離れず、東山(紀之)と一緒にずっと打ってましたね。自分の子供が生まれた時も一番に報告しました。コンサートや舞台などでお会いする時、いつも『あなたは優しい』と声を掛けてくださった。これからもそうしていきたいと思います。東山も笑顔なく、ずっと写真を見ていた。式中も黒柳徹子さんの隣に座り『本当に森さんがいなくなっちゃったんだね』と話してました。日本のお母さんであって、ジャニーズのお母さんでもありました。お客さんやファンを第一に思って、常に勉強をする姿勢を学んだ。ありがとうございました」
■志村けん
「とっても優しいお母さん、笑いをよく知っている方だった」
■加藤茶
「森さんとはコントで手の焼ける子供役として共演して、コント中にアドリブを言っていました。それを全部受けてくださって、僕たちも急な出来事で笑っちゃいました。終わったあとも和気あいあいとしていたな。元気で待ってて!」
■萩本欽一
「芸が深く気遣いの深い、そういう人でした。ありがとうって言える場を作ってくれず、だいたいお会いすると去り際に『もっとやりましょうね』って相手に合わせて相手の一番喜ぶ言葉を言って去っていく。外でお会いする時はきれいな言葉をお使いになるけど、家に遊びに来てくれた時とかは変な言葉をお使いになる。ギャグ、冗談、鼻歌の連発。素敵な部分を見させてもらった」
■浜木綿子
「改めて感動しました。努力の方ですからね。私が26歳の時の、初演の『放浪記』に出させてもらって、改めて感服しました。膨大なセリフを必死に覚えて、『努力する姿は誰かが見ててくれるから忘れちゃいけないですよね』って言葉が忘れられない」
■赤木春恵
「寂しいですね。亡くなってから日にちがありましたから少し落ち着きました。(森さんが)スカウトされて上京するまで、“みっちゃん”“あやちゃん”の付き合いでしたから。姉妹、肉親のように悲しい時も苦しかった時もつらい時も全部。ラジオ番組の公開放送もよく2人で出ていました。2人でアルバイトもしたし、スカウトの話も私のところに来て『あやちゃんどうしよう。東京に行って失敗したらどうしよう』って。もし本当に失敗しても大阪は迎え入れてくれるよって、そういう相談を受けたこともありました。普通の付き合いじゃなかった。申し伝えによると、私がとてもきれいだった時を知ってる人には会いたくない、衰えを見られたくないと言っていたよう。しょっちゅうFAXや手紙のやりとりはやってましたけど。70年近いお付き合いで、言葉に言い尽くせないものがあります」
■石井ふく子
「まだ、私の中に森さんはずっといます。母が森さんのことが好きで、笹の着物をプレゼントしていた。毎年お正月は私の実家で過ごしていました。10月に最後にお会いして『ごめんなさい。悔しいです』と謝れられた。たぶん、毎回差し入れをもらっていたので今回用意できなくてごめんなさいと言ったのだと。悔しいは、『放浪記』に出れなくなったことを悔やんでいたんだと思います。森さんの素敵な顔が私の中に残っている。あの小さい体がとても大きく感じます。さようならではなく、またねと言いたいです」
■左とん平
「映画でずいぶんお世話になりました。順番ですからね。でも寂しい人だったんですかね…。うちに帰ったら寂しかったんじゃないですかね」

2012/12/07