長嶋茂雄、武藤敬司、井上陽水、吉川晃司…と幅広いものまねレパートリーを誇る神奈月(51)が、デビュー30周年記念ライブ『ものまねLOVE30周年アニバーサリーツアー 神奈月ワールド2017』を12日より開催する。そんな“ものまね破壊王”の誕生と若手時代の葛藤に迫った。
■人生初ものまねは「吉田光雄」時代の長州力 高校2年生で訪れた“転機”
人生初ものまねは小学校4〜5年生の頃。「その頃、長州(力)さんが吉田光雄というリングネームでデビューしたんですよ。レスリング界から鳴り物入りで入ってきたので、強い相手を当てられてしまって勝てない。その様子をまねしようと思って、張り手を受けた時のリアクションの仕方とかをやっていました。兄貴にやったら、笑ってくれましたよ」。視聴者として“ものまね番組”が成熟していく過程にも心を奪われた。
「僕らが小さい時は、ものまね芸人という枠がなくて、歌手の人がかくし芸的にものまねをする番組と、素人参加の番組があった。あのねのねさんが司会をやっていて、紙に書いたレパートリーを素人さんたちが披露していくんですけど、そこからみんながプロになっていく登竜門的な番組でした。そこで竹中直人さんとか小堺一機さんとかを見て、ものまねって面白いなって」。
高校2年生で転機が訪れた。「中京テレビの『5時SATマガジン』っていう番組の『ローカルスターベストテン』というコーナーで、初めて電波に乗せてネタを披露しました。毎週土曜日の生放送だったのですが、それに向けて1週間で2分間くらいのネタを3ヶ月間作り続けた。西城秀樹さんとか郷ひろみさんとかの御三家とか、たのきんトリオさんとか田原俊彦さんや近藤真彦さんとかのものまねをやっていました」。毎週6000円という“ギャラ”をもらったことや、テレビ向きのネタを作るということは刺激的な体験だった。
「それに出させてもらったことで『お笑い芸人になりたい』という気持ちがかきたてられた。それまでは、クラスや学校の中でやっていたことが東海地方にまで広がって、街歩いていると声をかけられることもあったので、これが全国に行ったらどうなるんだろうみたいな、お笑いの甲子園でやってみたいなと思うようになりました」。
■渡辺正行の助言で決意 ラ・ママ共演のウンナン、爆問との“戦友意識”
進学校だったため、母親からは猛反対を受けたというが「みんなが大学で勉強する4年のうちに、稼ぐようになるから」と説得して上京。ショーパブに飛び込み、アルバイトとしてステージに立つようになった。「ものまね四天王のブームが来る前で、コロッケさんやクリカン(栗田貫一)さんが六本木や麻布でショーをやっている時代。僕も池袋でお店を見つけて、2年くらいやっていました」。ほどなくして、渡辺正行が主催する伝説の「ラ・ママ新人コント大会」ネタ見せの門を叩いた。
ネタを見た渡辺は「夜のバイトをしているでしょ?」と言い当て、神奈月にやさしく語りかけた。「しゃべり方とかが夜の感じになっている。そこをいかに芸人のトークっぽくしていけるかが大事。今は100%ものまねかもしれないけど、それを削っていって、50%くらいものまねで、あとの半分はトークやギャグで笑わせられるようになれば、もっとものまねが活きてくる」。テレビ局のオーディションでも、同じ理由で落とされていた神奈月にとって、渡辺の言葉が新たな一歩を踏み出す後押しになった。
当時のラ・ママは、今をときめく芸人たちがスターになることを夢見てネタを披露していた。「ちょうど、ウッチャンナンチャンさんがメディアにバンって出てくるちょっと前くらいで、ライブ会場では若い女の子たちが2人を見に来ていました。B-21スペシャルさん、ピンクの電話さんとかがメインを張っていて、僕とか爆笑問題さんとか浅草キッドさん、ホンジャマカさんが次の世代っていう感じだったかな。やっぱり、その方たちに会うと今でもなつかしい思いになって、戦友意識みたいのがありますね」。ラ・ママのトップバッターとして盛り上げていた神奈月にチャンスがやってくる。1994年から始まった『ものまねバトル』(日本テレビ)への出演だ(中に続く)。
■人生初ものまねは「吉田光雄」時代の長州力 高校2年生で訪れた“転機”
人生初ものまねは小学校4〜5年生の頃。「その頃、長州(力)さんが吉田光雄というリングネームでデビューしたんですよ。レスリング界から鳴り物入りで入ってきたので、強い相手を当てられてしまって勝てない。その様子をまねしようと思って、張り手を受けた時のリアクションの仕方とかをやっていました。兄貴にやったら、笑ってくれましたよ」。視聴者として“ものまね番組”が成熟していく過程にも心を奪われた。
「僕らが小さい時は、ものまね芸人という枠がなくて、歌手の人がかくし芸的にものまねをする番組と、素人参加の番組があった。あのねのねさんが司会をやっていて、紙に書いたレパートリーを素人さんたちが披露していくんですけど、そこからみんながプロになっていく登竜門的な番組でした。そこで竹中直人さんとか小堺一機さんとかを見て、ものまねって面白いなって」。
高校2年生で転機が訪れた。「中京テレビの『5時SATマガジン』っていう番組の『ローカルスターベストテン』というコーナーで、初めて電波に乗せてネタを披露しました。毎週土曜日の生放送だったのですが、それに向けて1週間で2分間くらいのネタを3ヶ月間作り続けた。西城秀樹さんとか郷ひろみさんとかの御三家とか、たのきんトリオさんとか田原俊彦さんや近藤真彦さんとかのものまねをやっていました」。毎週6000円という“ギャラ”をもらったことや、テレビ向きのネタを作るということは刺激的な体験だった。
「それに出させてもらったことで『お笑い芸人になりたい』という気持ちがかきたてられた。それまでは、クラスや学校の中でやっていたことが東海地方にまで広がって、街歩いていると声をかけられることもあったので、これが全国に行ったらどうなるんだろうみたいな、お笑いの甲子園でやってみたいなと思うようになりました」。
■渡辺正行の助言で決意 ラ・ママ共演のウンナン、爆問との“戦友意識”
進学校だったため、母親からは猛反対を受けたというが「みんなが大学で勉強する4年のうちに、稼ぐようになるから」と説得して上京。ショーパブに飛び込み、アルバイトとしてステージに立つようになった。「ものまね四天王のブームが来る前で、コロッケさんやクリカン(栗田貫一)さんが六本木や麻布でショーをやっている時代。僕も池袋でお店を見つけて、2年くらいやっていました」。ほどなくして、渡辺正行が主催する伝説の「ラ・ママ新人コント大会」ネタ見せの門を叩いた。
ネタを見た渡辺は「夜のバイトをしているでしょ?」と言い当て、神奈月にやさしく語りかけた。「しゃべり方とかが夜の感じになっている。そこをいかに芸人のトークっぽくしていけるかが大事。今は100%ものまねかもしれないけど、それを削っていって、50%くらいものまねで、あとの半分はトークやギャグで笑わせられるようになれば、もっとものまねが活きてくる」。テレビ局のオーディションでも、同じ理由で落とされていた神奈月にとって、渡辺の言葉が新たな一歩を踏み出す後押しになった。
当時のラ・ママは、今をときめく芸人たちがスターになることを夢見てネタを披露していた。「ちょうど、ウッチャンナンチャンさんがメディアにバンって出てくるちょっと前くらいで、ライブ会場では若い女の子たちが2人を見に来ていました。B-21スペシャルさん、ピンクの電話さんとかがメインを張っていて、僕とか爆笑問題さんとか浅草キッドさん、ホンジャマカさんが次の世代っていう感じだったかな。やっぱり、その方たちに会うと今でもなつかしい思いになって、戦友意識みたいのがありますね」。ラ・ママのトップバッターとして盛り上げていた神奈月にチャンスがやってくる。1994年から始まった『ものまねバトル』(日本テレビ)への出演だ(中に続く)。
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2017/07/10