手塚治虫、星新一、大瀧詠一、古舘伊知郎、松田聖子、伊集院光、デーモン閣下、いっこく堂、オードリー…。テレビ番組やラジオ番組の台本を手がける、放送作家という立場から芸能界を眺めてきた藤井青銅氏(61)の新著『幸せな裏方』(新潮社)には、ジャンルも世代も異なる顔ぶれがズラリ。ページをめくるたびに、目からウロコの裏話が満載だ。時には放送作家という立場を越えて、あらゆる“仕掛け”に関わってきた藤井氏に、同書に登場する有名人たちとのエピソードを聞いた。
■古舘流の配慮に感激 鶴瓶、さんまとは違ったトークの特徴とは?
同書の冒頭を飾るのは、フリーアナウンサー・古舘伊知郎(62)との若き日の交流。遡ること31年前の1986年、ラジオ番組『古舘伊知郎の独占!オールニッポンヒット歌謡』(ニッポン放送)に放送作家のひとりとして関わっていた藤井氏は、その時に起きた時事ネタを“古舘節”で語るというコーナーの台本を担当していた。ラジオのパーソナリティーには大きく分けて「しゃべりが苦手で、台本からあまり外れずに話す」「しゃべりに自信があるため、台本から逸脱して自分流に話す」の2つのパターンがあるというが、古舘はそのどちらにも属していなかったと藤井氏は熱弁を振るう。
「古舘さんは、僕ら作家が書いた台本をちゃんと活かして読んだ上で、そこに自分のしゃべりを乗せてくれる。そうすると2人分の知恵がトークに入って、それが古舘さんという1人の人格からバッと出てくるから、めちゃくちゃ面白いんですよね。負けず嫌いなところもあって、僕が台本の中で2つくらいギャグを書いていたら『オレも!』っていうことで、自分でもう2個ギャグを重ねてきていました(笑)」。
その後も日本テレビ系トーク番組『オシャレ30・30』や、舞台『トーキングブルース』の初回の原作などで古舘と交わり、一時期は「周りの人たちから、古舘プロジェクト(古舘の事務所)人間だと思われていた」というほど交流を深めていた。そんな古舘が、昨年3月末にメインキャスターを12年間務めたテレビ朝日『報道ステーション』を離れ、再びバラエティーの世界へと帰還。往年を彷彿とさせるようなマシンガントークに、藤井氏も感慨深いものを感じているようだ。
「『報ステ』から古舘さんを知ったという若い世代の方は、ビックリでしょうね。いやースゴいですよね。面白いことを言う人、淀みなく話す人、どちらか一方であればたくさんいるんですけど、両方が合わさった人は、ほとんどいない。笑福亭鶴瓶さん、明石家さんまさんは、言うまでもなく面白いですけど、ああいったまくし立てるしゃべりかといえば、ちょっと違いますよね。滑舌が良くて、聞き取りやすいアナウンサーの方もいっぱいいますけど、面白いわけではない。その両方が備わっているのは、やっぱりスゴいと思います」。
■間近で触れた大瀧詠一さんの仕事術「いろんなことを語ってくれた」
続く第2章では、1章丸ごと使って「大瀧詠一さんとの思い出」を回想。原案が小林信彦氏、脚本・藤井氏、演出が大瀧さんという布陣によって1984年に放送されたラジオドラマ『マイケルジャクソン出世太閤記』(ニッポン放送)では“仕事術”を学んだ。翌85年に放送された『はっぴいえんどのオールナイトニッポンスペシャル』(同局)では、藤井氏の脚本によってメンバー4人が再結成にいたるまでのいきさつを自らドラマで再現した際の秘話など、大瀧さんとの交流の深さがうかがい知れるエピソードの数々がつづられている。
2013年末に大瀧さんが急逝した後に、「探偵物語」「熱き心に」「風立ちぬ」などのセルフカバー音源が発見されたというニュースに触れた際の藤井氏の思いを記した「あるだろうな」も印象的だ。文章の端々から大瀧さんの人柄と音楽観が伝わってくる内容になっているが、同コラムの中で次のような感謝の思いを伝えている。「おそらく大瀧さんから見れば『たまたま近くにいた、笑いの波長が合うヘンな若造』程度だろう。だから、ぼくに色んなことを語ってくれたのかなぁ……と、今にして思うのだ」(本書p87-88)。
23歳で『第1回星新一ショートショート・コンテスト』に入賞し、ほどなくして放送業界の門を叩いてから6年後の1984年。体力・気力ともに脂が乗り切っている藤井氏は、大瀧さんとの出会いによって、さまざまなことを学んだ。それから3年後の1987年、黒のマントを羽織った「ギャグオペラ」なる芸を披露する若者が藤井氏の前に現れた。それが、当時ハタチの伊集院光(49)だった(中に続く)。
■古舘流の配慮に感激 鶴瓶、さんまとは違ったトークの特徴とは?
同書の冒頭を飾るのは、フリーアナウンサー・古舘伊知郎(62)との若き日の交流。遡ること31年前の1986年、ラジオ番組『古舘伊知郎の独占!オールニッポンヒット歌謡』(ニッポン放送)に放送作家のひとりとして関わっていた藤井氏は、その時に起きた時事ネタを“古舘節”で語るというコーナーの台本を担当していた。ラジオのパーソナリティーには大きく分けて「しゃべりが苦手で、台本からあまり外れずに話す」「しゃべりに自信があるため、台本から逸脱して自分流に話す」の2つのパターンがあるというが、古舘はそのどちらにも属していなかったと藤井氏は熱弁を振るう。
「古舘さんは、僕ら作家が書いた台本をちゃんと活かして読んだ上で、そこに自分のしゃべりを乗せてくれる。そうすると2人分の知恵がトークに入って、それが古舘さんという1人の人格からバッと出てくるから、めちゃくちゃ面白いんですよね。負けず嫌いなところもあって、僕が台本の中で2つくらいギャグを書いていたら『オレも!』っていうことで、自分でもう2個ギャグを重ねてきていました(笑)」。
その後も日本テレビ系トーク番組『オシャレ30・30』や、舞台『トーキングブルース』の初回の原作などで古舘と交わり、一時期は「周りの人たちから、古舘プロジェクト(古舘の事務所)人間だと思われていた」というほど交流を深めていた。そんな古舘が、昨年3月末にメインキャスターを12年間務めたテレビ朝日『報道ステーション』を離れ、再びバラエティーの世界へと帰還。往年を彷彿とさせるようなマシンガントークに、藤井氏も感慨深いものを感じているようだ。
「『報ステ』から古舘さんを知ったという若い世代の方は、ビックリでしょうね。いやースゴいですよね。面白いことを言う人、淀みなく話す人、どちらか一方であればたくさんいるんですけど、両方が合わさった人は、ほとんどいない。笑福亭鶴瓶さん、明石家さんまさんは、言うまでもなく面白いですけど、ああいったまくし立てるしゃべりかといえば、ちょっと違いますよね。滑舌が良くて、聞き取りやすいアナウンサーの方もいっぱいいますけど、面白いわけではない。その両方が備わっているのは、やっぱりスゴいと思います」。
■間近で触れた大瀧詠一さんの仕事術「いろんなことを語ってくれた」
続く第2章では、1章丸ごと使って「大瀧詠一さんとの思い出」を回想。原案が小林信彦氏、脚本・藤井氏、演出が大瀧さんという布陣によって1984年に放送されたラジオドラマ『マイケルジャクソン出世太閤記』(ニッポン放送)では“仕事術”を学んだ。翌85年に放送された『はっぴいえんどのオールナイトニッポンスペシャル』(同局)では、藤井氏の脚本によってメンバー4人が再結成にいたるまでのいきさつを自らドラマで再現した際の秘話など、大瀧さんとの交流の深さがうかがい知れるエピソードの数々がつづられている。
2013年末に大瀧さんが急逝した後に、「探偵物語」「熱き心に」「風立ちぬ」などのセルフカバー音源が発見されたというニュースに触れた際の藤井氏の思いを記した「あるだろうな」も印象的だ。文章の端々から大瀧さんの人柄と音楽観が伝わってくる内容になっているが、同コラムの中で次のような感謝の思いを伝えている。「おそらく大瀧さんから見れば『たまたま近くにいた、笑いの波長が合うヘンな若造』程度だろう。だから、ぼくに色んなことを語ってくれたのかなぁ……と、今にして思うのだ」(本書p87-88)。
23歳で『第1回星新一ショートショート・コンテスト』に入賞し、ほどなくして放送業界の門を叩いてから6年後の1984年。体力・気力ともに脂が乗り切っている藤井氏は、大瀧さんとの出会いによって、さまざまなことを学んだ。それから3年後の1987年、黒のマントを羽織った「ギャグオペラ」なる芸を披露する若者が藤井氏の前に現れた。それが、当時ハタチの伊集院光(49)だった(中に続く)。
![](https://contents.oricon.co.jp/pc/img/_parts/icon/icon-comment_38.png)
2017/04/27