人気デュオ・KinKi Kidsが、9月29日に東京・日本武道館で久々のアリーナツアーをスタートさせた。今年の『NHK紅白歌合戦』への出場も噂される彼らだが、ジャニーズ事務所のアイドルの中でも、とくに音楽に特化してきた2人である。デュオとしてはもちろん、ソロアーティストとしての活動も盛んに行ってきた。そんなKinKi Kidsが、デビュー20周年を前に見せたものとは? 初めてコンサートを行った思い出の地・武道館の模様から、堂本光一と堂本剛が作り上げた、日本のアイドルカルチャーの極みを考える。
◆久々の1万人規模の会場で見せる、エンタテインメントショーの頂点
今も昔も、アイドルに偏見はつきものだ。どんなに優れたパフォーマンスを披露しても、“子供騙しだ”などと揶揄され、どんなに曲がヒットしても、“自分たちで曲も書けないくせに”などと揚げ足を取られる。世の中には、アーティストとアイドルに境界線を引きたがる大人たちが、まだまだごまんといる。
そんな、アイドルに偏見やアレルギーを持つ大人にこそ観てほしいのが、KinKi Kidsのライブである。実際には、ファンクラブの会員でないとチケットは入手しにくいし、今回の武道館ライブなどは、堂本光一がMCで「今回は、倍率がすごかったみたいやね〜」と語るほど申し込みが殺到し、一般の人が鑑賞することはなかなか難しいのだけれど。
それはもちろん、ドームでのライブが恒例の彼らが、久しぶりに1万人規模の会場でコンサートを開催するとあって、「今までにない近い距離でKinKi Kidsが見られる!」と、ファンの期待も高まっていたこともある。ドームクラスのコンサートでも、音の良さだけでなく“歌を聴かせる”演出のきめ細やかさには定評があった。それにしても、今回の武道館ライブのオーケストラの豪華さと、耳に届く一音一音の美しさには、エンタテインメントショーの一つの頂点を見た思いがした。
KinKi Kidsの音楽のベースになっているのは、ロックやR&Bやダンスミュージックではなく、昭和の時代から脈々と受け継がれる“歌謡曲”である。デビュー当時、山下達郎からも指摘されたというが、堂本光一と堂本剛の歌唱には、何とも言えない“哀調”がある。デビュー当時の彼らはともに18歳。ファンに夢や希望を与える存在であるはずのアイドルが、歌い始めると独特の暗さや翳り、危うさと切なさを溢れさす。光一と剛、どちらも、世界に二つとない個性的な声なのだけれど、和声であれユニゾンであれ、二つの異なる声が重なった時に生まれる情感は、年々深く、濃く、ふくよかになっているように感じられる。
◆まるで違う2人の踊り、なのに2人で並んでこそ完成する
今回のツアーのセットリストは、『N Album』の収録曲を中心に構成されている。意外だったのが、ここ最近にはないほど2人が踊っていることだ。「モノクローム ドリーム」「naked mind」「雨音のボレロ」など、そこまでアップテンポではない曲をときにすれ違い、ときに重なり、離れ、近づきながら、ダンサーを加えて多彩なフォーメーションで魅せていく。
並んだときに面白いのが、光一と剛の踊りの個性の違いだ。背格好は似ているのに、音との共鳴の仕方が、2人はまるで違う。同じ振付なのに、光一は腕や脚を大きく動かし、剛は脱力したように、小さく柔らかく動かす。体全体でリズムを刻み、その瞬間瞬間の動きがすべて決まっているのが光一で、体から湧き上がるグルーヴに身を任せているように見えるのが剛だ。なのに、2人が並ぶと、歌のハーモニーと同じように、何とも言えない妙なる調べとなる。同じ動きのはずなのに違って見えて、違って見えるのに、2人並んでこそ完成する。どちらの動きからも目が離せないのだ。音楽が、一つのアートとして、瞬時に完成しながら消えていく。その瞬間を目撃できていることが、とても貴重で、とても切ない。
MCにも定評のあるKinKi Kidsだが、その面白さはもはや名人芸の域である。客に対してドSな姿勢で斬り込む光一と、とぼけた味わいで光一の意外性を引っ張り出す剛。今回は、光一の新しいキャラクターを剛が発掘、“ラップができないのに必死でラップをやる男”として、普段はパーフェクト王子に見える光一の、何ともダメダメでチャーミングな一面を引き出し、爆笑を誘っていた。
◆ソロ曲の封印を解いて―― 改めて感じる2人の音楽の尊さ
そんな感動的な歌と舞い、面白すぎる会話の妙を目の当たりにしたあと、2人のライブではそれまで封印されていたソロのコーナーへ。自作曲をいくつも持ちながら、それらは披露せず、完全に“ダンス”にフォーカスした光一と、自作曲を歌ったあとで、ベースを弾きながらバンドを煽っていくファンク演奏に特化した剛。ソロでやっていること、つまり2人のやりたいことがあまりにも違うことを再確認しながら、だからこそ、KinKi Kids2人での表現が持つ爆発力のようなものを痛感せざるを得ない。ソロもいい。2人ともストイックだし、やりたいことを極めているのはわかる。でもだからこそ、19年、2人がともに歩んできた道のりが、世に送り出してきた音楽の数々が、尊いと思えるのだ。
今回のソロコーナーには、光一のソロ終盤には剛が、剛のソロ終盤には光一が参加し、盛り上げたり笑いを誘ったりするシーンもあり、そういう意味でもこのツアーは、ファンが見たかった光景の連続である。デビューから19年、こんなふうにそれぞれの音楽と、2人で奏でる音楽を極めた場所にたどり着くことを、誰が想像できただろうか。
◆歌謡曲の正統的継承たるKinKi Kids、成熟した彼らが向かう先
KinKi Kidsの、日本のミュージックシーンでの役割は、“歌謡曲の正統的継承”である。そのことは、吉井和哉が書き下ろした新曲「薔薇と太陽」を聴いてもよくわかる。終盤は、シングル曲をメドレーで歌うのだが、初期のものから最近のものまで、すべて名曲揃い。とくに、2人だからこそのデビュー曲「硝子の少年」など、2人でもう何度歌ったかわからないほどだろう。でも、あれから19年経った今、武道館で、成熟した2人が歌う「硝子の少年」には格別の輝きがあった。アイドルとしてでなく、音楽家として。2人から発信される音楽は、一番新しいものが、たぶん一番美しい。
アンコール1曲目に披露したのは、シンガー・ソングライターの安藤裕子が書き下ろした新曲「道は手ずから夢の花」。どこか和的な、雅な雰囲気を漂わせた楽曲である。KinKi Kidsの2人は、楽器も弾ければ、それぞれが曲を書くこともできる。でも、日本にはすぐれたソングライターが大勢いて、KinKi Kidsが歌う前提で書くことで、新たなイマジネーションを刺激されることもある。アイドルの楽曲は、クリエーターのイマジネーションの結晶だ。歌えて、踊れて、楽器が演奏できて、ファッションに音楽に笑いと、あらゆるセンスに優れた2人は、だからこそエンタテインメントの“頂点”を極められる。一切の妥協なく、視覚的にも音楽的にも美を極めた「We are KinKi Kids」は、まさに日本のアイドルカルチャーの絶頂にある。
(文/菊地陽子)
◆久々の1万人規模の会場で見せる、エンタテインメントショーの頂点
今も昔も、アイドルに偏見はつきものだ。どんなに優れたパフォーマンスを披露しても、“子供騙しだ”などと揶揄され、どんなに曲がヒットしても、“自分たちで曲も書けないくせに”などと揚げ足を取られる。世の中には、アーティストとアイドルに境界線を引きたがる大人たちが、まだまだごまんといる。
そんな、アイドルに偏見やアレルギーを持つ大人にこそ観てほしいのが、KinKi Kidsのライブである。実際には、ファンクラブの会員でないとチケットは入手しにくいし、今回の武道館ライブなどは、堂本光一がMCで「今回は、倍率がすごかったみたいやね〜」と語るほど申し込みが殺到し、一般の人が鑑賞することはなかなか難しいのだけれど。
それはもちろん、ドームでのライブが恒例の彼らが、久しぶりに1万人規模の会場でコンサートを開催するとあって、「今までにない近い距離でKinKi Kidsが見られる!」と、ファンの期待も高まっていたこともある。ドームクラスのコンサートでも、音の良さだけでなく“歌を聴かせる”演出のきめ細やかさには定評があった。それにしても、今回の武道館ライブのオーケストラの豪華さと、耳に届く一音一音の美しさには、エンタテインメントショーの一つの頂点を見た思いがした。
KinKi Kidsの音楽のベースになっているのは、ロックやR&Bやダンスミュージックではなく、昭和の時代から脈々と受け継がれる“歌謡曲”である。デビュー当時、山下達郎からも指摘されたというが、堂本光一と堂本剛の歌唱には、何とも言えない“哀調”がある。デビュー当時の彼らはともに18歳。ファンに夢や希望を与える存在であるはずのアイドルが、歌い始めると独特の暗さや翳り、危うさと切なさを溢れさす。光一と剛、どちらも、世界に二つとない個性的な声なのだけれど、和声であれユニゾンであれ、二つの異なる声が重なった時に生まれる情感は、年々深く、濃く、ふくよかになっているように感じられる。
◆まるで違う2人の踊り、なのに2人で並んでこそ完成する
今回のツアーのセットリストは、『N Album』の収録曲を中心に構成されている。意外だったのが、ここ最近にはないほど2人が踊っていることだ。「モノクローム ドリーム」「naked mind」「雨音のボレロ」など、そこまでアップテンポではない曲をときにすれ違い、ときに重なり、離れ、近づきながら、ダンサーを加えて多彩なフォーメーションで魅せていく。
並んだときに面白いのが、光一と剛の踊りの個性の違いだ。背格好は似ているのに、音との共鳴の仕方が、2人はまるで違う。同じ振付なのに、光一は腕や脚を大きく動かし、剛は脱力したように、小さく柔らかく動かす。体全体でリズムを刻み、その瞬間瞬間の動きがすべて決まっているのが光一で、体から湧き上がるグルーヴに身を任せているように見えるのが剛だ。なのに、2人が並ぶと、歌のハーモニーと同じように、何とも言えない妙なる調べとなる。同じ動きのはずなのに違って見えて、違って見えるのに、2人並んでこそ完成する。どちらの動きからも目が離せないのだ。音楽が、一つのアートとして、瞬時に完成しながら消えていく。その瞬間を目撃できていることが、とても貴重で、とても切ない。
MCにも定評のあるKinKi Kidsだが、その面白さはもはや名人芸の域である。客に対してドSな姿勢で斬り込む光一と、とぼけた味わいで光一の意外性を引っ張り出す剛。今回は、光一の新しいキャラクターを剛が発掘、“ラップができないのに必死でラップをやる男”として、普段はパーフェクト王子に見える光一の、何ともダメダメでチャーミングな一面を引き出し、爆笑を誘っていた。
◆ソロ曲の封印を解いて―― 改めて感じる2人の音楽の尊さ
そんな感動的な歌と舞い、面白すぎる会話の妙を目の当たりにしたあと、2人のライブではそれまで封印されていたソロのコーナーへ。自作曲をいくつも持ちながら、それらは披露せず、完全に“ダンス”にフォーカスした光一と、自作曲を歌ったあとで、ベースを弾きながらバンドを煽っていくファンク演奏に特化した剛。ソロでやっていること、つまり2人のやりたいことがあまりにも違うことを再確認しながら、だからこそ、KinKi Kids2人での表現が持つ爆発力のようなものを痛感せざるを得ない。ソロもいい。2人ともストイックだし、やりたいことを極めているのはわかる。でもだからこそ、19年、2人がともに歩んできた道のりが、世に送り出してきた音楽の数々が、尊いと思えるのだ。
今回のソロコーナーには、光一のソロ終盤には剛が、剛のソロ終盤には光一が参加し、盛り上げたり笑いを誘ったりするシーンもあり、そういう意味でもこのツアーは、ファンが見たかった光景の連続である。デビューから19年、こんなふうにそれぞれの音楽と、2人で奏でる音楽を極めた場所にたどり着くことを、誰が想像できただろうか。
◆歌謡曲の正統的継承たるKinKi Kids、成熟した彼らが向かう先
KinKi Kidsの、日本のミュージックシーンでの役割は、“歌謡曲の正統的継承”である。そのことは、吉井和哉が書き下ろした新曲「薔薇と太陽」を聴いてもよくわかる。終盤は、シングル曲をメドレーで歌うのだが、初期のものから最近のものまで、すべて名曲揃い。とくに、2人だからこそのデビュー曲「硝子の少年」など、2人でもう何度歌ったかわからないほどだろう。でも、あれから19年経った今、武道館で、成熟した2人が歌う「硝子の少年」には格別の輝きがあった。アイドルとしてでなく、音楽家として。2人から発信される音楽は、一番新しいものが、たぶん一番美しい。
アンコール1曲目に披露したのは、シンガー・ソングライターの安藤裕子が書き下ろした新曲「道は手ずから夢の花」。どこか和的な、雅な雰囲気を漂わせた楽曲である。KinKi Kidsの2人は、楽器も弾ければ、それぞれが曲を書くこともできる。でも、日本にはすぐれたソングライターが大勢いて、KinKi Kidsが歌う前提で書くことで、新たなイマジネーションを刺激されることもある。アイドルの楽曲は、クリエーターのイマジネーションの結晶だ。歌えて、踊れて、楽器が演奏できて、ファッションに音楽に笑いと、あらゆるセンスに優れた2人は、だからこそエンタテインメントの“頂点”を極められる。一切の妥協なく、視覚的にも音楽的にも美を極めた「We are KinKi Kids」は、まさに日本のアイドルカルチャーの絶頂にある。
(文/菊地陽子)
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2016/10/06