• ORICON MUSIC(オリコンミュージック)
  • ドラマ&映画(by オリコンニュース)
  • アニメ&ゲーム(by オリコンニュース)
  • eltha(エルザ by オリコンニュース)
ORICON NEWS

大喜利とバラエティー番組の50年(1)『笑点』とMANZAIブーム

 日本テレビ系の演芸番組『笑点』が、5月15日の放送で“満50年”を迎えた。おなじみのテーマ曲を聴いて、ホッと一息つく人から休日の終わりを感じる人まで、さまざまだろうが、多くの日本人の“日曜日の夕方”を支えてきたことは間違いない。そんな『笑点』に番組スタート時から出演してきた落語家の桂歌丸が、50年の節目で大喜利司会の勇退を発表。それに伴い、新司会者に春風亭昇太(56)、新メンバーには林家三平(45)というフレッシュな顔ぶれを迎えて“51年目”のスタートを切った。

51年目を迎えて“新体制”となった『笑点』メンバー(前列左から)春風亭昇太、林家三平、林家たい平、(後列左から)三遊亭円楽(6代目)、三遊亭好楽、林家木久扇、三遊亭小遊三、山田隆夫 (C)ORICON NewS inc.

51年目を迎えて“新体制”となった『笑点』メンバー(前列左から)春風亭昇太、林家三平、林家たい平、(後列左から)三遊亭円楽(6代目)、三遊亭好楽、林家木久扇、三遊亭小遊三、山田隆夫 (C)ORICON NewS inc.

写真ページを見る

 一方、「笑いのカリスマ」ダウンタウン松本人志がチェアマンとなり、有吉弘行バカリズムバナナマン設楽統らが参加し、大喜利の日本一を決める大会『IPPONグランプリ』(フジテレビ)も、人気芸人たちの貴重な“真剣勝負の場”として好評だ。そこで今回は「大喜利とバラエティー番組の50年」と題し、全4回の連載を通して両番組の歴史をたどっていく。初回は、1980年に起こった「MANZAIブーム」以降のバラエティー番組の流れをひも解きながら、半世紀もの間に番組フォーマットを変えなかった『笑点』が、いかにして“偉大なるマンネリ”を確立したのか迫ってみたい。

■テレビ向きの落語を…立川談志が生み出した『笑点』

 1960年代前半〜70年代前半、『夢であいましょう』(NHK・1961年)や『8時だョ!全員集合』(TBS・1969年)など、後年語り継がれるような人気バラエティー番組が誕生し、いわゆる「テレビの黄金時代」を迎える。テレビ人気が高まる一方、相対的に古典的娯楽の落語の寄席に観客が来ない状況に陥った。これを打破するために、七代目立川談志が立ち上がった。1966年、当時30歳の談志は落語の魅力を伝えるため、三遊亭円楽(五代目)、歌丸ら若手の落語家を率いて『笑点』を立ち上げた。番組開始時は、司会者として出演者に“キャラ付け”をしていたという談志は、2000年の雑誌インタビューで次のように語っている。

「俺の功績は、落語家の欠点というか、最もテレビ的でないところをテレビ的に生かしたところでしょうね。大喜利なら、座ってすむし、一人称でしゃべってもウケる。結局、大喜利というかたちはわかりやすい(中略)『あれは本当の落語じゃない』って言う人もいるけれど、あれは、俺の作った一つの落語なんですよ」(白夜書房『笑芸人 vol.2』)

 50年前の番組開始の時点で、出演者たちが横一列に並んで回答の優劣を競い合うという構成や、ごほうびの「座布団」のやりとりといった、おなじみのフォーマットは確立されている。ちなみに、当時は画期的だった出演者横並びの構図は、現在のバラエティー番組で定番化。『アメトーーク!』(テレビ朝日)に代表される「ひな壇番組」へと進化を遂げていく。こうした談志の“発明”が引き継がれ、3代目司会者の喜劇人・三波伸介が、メンバーの特徴をうまく引き出すことに成功。この時期に最高視聴率40.5%をマーク(1973年10月28日放送回。ニールセン調べ)するなど、たちまち大人気番組へと成長していった。しかし、このまま順風満帆に進んでいくかに見えた『笑点』の前に、MANZAIブームの波が押し寄せた。

■MANZAIブーム到来 そのとき『笑点』は

 1980年4月、『THE MANZAI』(フジテレビ)の初回が放送された。出演する漫才師をはじめ、会場のセット、観客、演出にいたるまで、流行を意識した番組作りが当時の若者のハートをキャッチ。ほどなくして“MANZAIブーム”となり、ツービート、B&Bらが一気にスターダムへと躍り出た。翌年には、伝説的番組『オレたちひょうきん族』(同局)がスタート。すでに、国民的な人気を誇っていた裏番組『全員集合』の“入念に計算された集団芸による笑い”に対抗し、『ひょうきん族』はビートたけし明石家さんまといった強烈な個がぶつかりあう“アドリブによる笑い”を仕掛け、放送時間帯から「土8戦争」と称されるほどの壮絶な戦いを繰り広げていった。当時の新聞のテレビ批評記事によると、『笑点』スタッフ陣は、この時代の流れに危機感を抱くとともに、自分たちのアイデンティティーを見直す機会になったという。

「笑点が『危機』を感じたこともあった。フジテレビ系の『THE MANZAI』などが隆盛を極めた80年代の漫才ブームだ。82年から番組作りに関わっているプロデューサーの飯田達哉さん(63)は『当時のプロデューサーは、演芸コーナーにあえて漫才の人気者は出さないって守っていましたね』。太神楽の曲芸師や歌謡漫談を出演させるなど、独自路線を貫いた」(朝日新聞2015年4月19日付紙面より)

 MANZAIブームを皮切りに、フジテレビが80年代に推し進めた「軽チャー路線」が見事にハマり、古典の芸に触れる従来型の演芸番組が少なくなっていく中、『笑点』は静かに闘いながら“マンネリ”を貫いてきたのだ。そんな半世紀の歴史を出演者として見守り続けてきた歌丸は、最後の出演となった5月22日の生放送直後の会見で「噺家にとって、大きな大きな番組。私たちが世にでるきっかけを作ってくれて、顔と名前を売ってくれた。私は、恩人だと思っています」と番組への思いを打ち明けた。「フラットに番組を100年続けていくため」という制作陣の強い意思のもと、新司会に昇太、新メンバーに三平と若手を抜てき。“偉大なるマンネリ”を確立した『笑点』が、今後どのように展開していくか大いに注目が集まる。

■『笑点』司会者と担当時期
初代:七代目立川談志 1966年5月〜69年11月
2代目:前田武彦 1969年11月〜70年12月
3代目:三波伸介 1970年12月〜82年12月
4代目:五代目三遊亭円楽 1983年1月〜2006年5月
5代目:桂歌丸 2006年5月〜16年5月
6代目:春風亭昇太 2016年5月〜

オリコントピックス

あなたにおすすめの記事

 を検索