歌手の藤巻亮太が、3年半ぶりとなるアルバムを発表した。前作ではバンド活動の中で溜まっていた“貯金”を全て吐き出し、いったん“空っぽ”になってしまったという藤巻。だがアルピニスト・野口健とともに世界をまわったりする中で、自身を客観的に見ることができるようになったという。28日放送の『FNS うたの春まつり』でレミオロメンの名曲「3月9日」をサプライズ歌唱することが発表され、「レミオロメンの曲を演奏したときにすごく楽になった」と話す藤巻に、3年半の葛藤、現在の創作に対する思いなどについて聞いた。
■ソロとして吐露するものが何もない状況になった
――『日日是好日』は明るいトーンの解放感溢れる作品。自身の内省世界を突き詰めた前作アルバム『オオカミ青年』とはベクトルがまったく違いますね。
【藤巻亮太】 アルバムってどこか、そのときそのときの自分自身の集大成みたいな部分がありますからね。そもそも僕はレミオロメンをやる中でこぼれ落ちていたパーソナルなドロッとした感情とか、ギザギザした想いとか、そういったものはバンドではなく独りでやったほうがいいなと思って衝動でソロを始めたんです。だからスタートしたばかりの頃はある意味、レミオロメンの活動の中で溜まっていた“貯金”があって、『オオカミ青年』はそれをすべて吐露したアルバムだったんですよ。でも、リリースしてツアーもまわったことで願いは成就してしまって、自分が空っぽになってしまった。そのまま歌い続けても多分、レミオロメンと何ら変わらないものになってしまうだろうし、でもソロとしての吐露するものもない。要は「何もない、困った」って状態になってしまったんです。
――それってアーティストとしてかなり怖い状態じゃないですか。
【藤巻】 だからここまでくるのに3年半、かかりました(笑)。当時、僕の中でどういうことが起こっていたかっていうと、レミオロメンらしさとかソロらしさっていう線や仕切りを自分の世界に作ってしまっていて、音楽に使えるスペースがすごく狭くなっていたんです。狭いところで何かをやろうとしているときって「こうするべき」って固定概念でがんじがらめになっているから、生きること自体がもう苦しいんですよね。だからまずその“線”の存在に気づくこと、そしてその線は誰かが引いたわけではなく、自分が引いたものだから自分で消していく必要があった。1本ずつ線を消していくとその分、スペースが広がるし、そうなると人間って救われるんですよね。『日日是好日』はそうやっていろんな線を消すことで癒されながら作った作品。この中に「回復魔法」って曲があるんですけど、まさに自分が回復する過程をこの1枚のアルバムで如実に表せた気がします。
――アルピニストの野口健さんとヒマラヤやアラスカなど、世界中を旅したことも“回復”のきっかけになったそうですね。
【藤巻】 そうですね。やっぱり人間って東京にいて自分のサイクルで動いているうちは、自分のことをなかなか客観的には見られない。でも物理的にそこから離れて山の中を2〜3週間も歩いていると、精神的に目線が俯瞰になっていくんです。で、余計なものがどんどん削ぎ落とされていく。そうなると自分の中で本当に“大切なモノ”と“大切そうなモノ”の違いが少しずつ見えてくるんですよ。
――例えば?
【藤巻】 責任を果たすとかファンの声に応えるって一見、大切そうだけど、ある意味、自分で何とかできる範疇を越えている話で、それは“大切そうなモノ”じゃないかなと。本当に大切なのは自分が本当にいいと思う音楽を仕上げていくことで、そこにエネルギーを注ぐべきだと思ったんです。聴いてくれる人のために曲を作るっていうのも嘘じゃないけど、突き詰めると少しだけ嘘になるというか。むしろ、自分がいいと思う音楽を作ることがゆくゆくはそこに繋がっていく…。それってある意味、恋愛と一緒だと思うんです。相手に振り向いて欲しい、好きになって欲しいって思っても人の心は変えられないじゃないですか。こっちを好きになるかどうかは向こうが決めることで、自分ではどうしようもできない。だったら自分自身が変わることにエネルギーを注ぐほうが、もしかしたら好きになってもらえる可能性も上がるかもしれないっていう。
■レミオロメンの曲を演奏したときにすごく楽になった
――わかりやすい例えですね(笑)。
【藤巻】 実際、僕自身、(リスナーに)愛されたい、好かれたいって思っているうちは煮詰まってしまうことが多かった気がするんです。そこに気づいたときに“大切そうなモノ”は一回、手放してみようかと。そしたらすごく風通しが良くなって、他愛もないことを歌った曲でも「自分がそう思うならいい」っていう、新たなルールができた。それがこのアルバムの明るさとか解放感に繋がったんじゃないですかね。
――最新曲の「春祭」なんかはレミオロメンらしさもソロらしさも飛び越えて、新たな“藤巻亮太”の曲になっていますよね。
【藤巻】 実は去年、レミオロメンの曲を演奏したときにすごく楽になったんです。これも自分が作ってきたものだし、そこを閉じてしまったらソロもできない。そうやってレミオロメンの曲を歌う自分を肯定したときに一番、大きなスペースを獲得できたんですよね。しかも閉じていたものを改めて開くと新たな化学反応が起こって、開いた今の自分にしか作れない曲がどんどん出てきた。だったらそこに蓋をするのはもったいない、たっぷりとあるその豊かな世界の中でやっていけばいいんじゃないかなって思ったんですよ。
――昨年5月のインタビューでは「いつかはレミオロメンをやりたい」とも言っていましたが、その気持は今も変わらず?
【藤巻】 その頃はそうやって自分を鼓舞しないと先に進めない時期だったんだけど、メンバーそれぞれの状況もありますからね。そういう意味で言うとさっきの恋愛の例え話と同じで、自分でどうにかできる時期とできない時期があって…。今後、ご縁があって実現したら素晴らしいことだけど、努力してそこに向かおうとは思っていないんです。それよりも今は目の前の音楽にエネルギーを注ぎたい。その中で機が熟したときにはレミオロメンの再始動もあるかもしれませんね。
(文/若松正子)
■ソロとして吐露するものが何もない状況になった
――『日日是好日』は明るいトーンの解放感溢れる作品。自身の内省世界を突き詰めた前作アルバム『オオカミ青年』とはベクトルがまったく違いますね。
【藤巻亮太】 アルバムってどこか、そのときそのときの自分自身の集大成みたいな部分がありますからね。そもそも僕はレミオロメンをやる中でこぼれ落ちていたパーソナルなドロッとした感情とか、ギザギザした想いとか、そういったものはバンドではなく独りでやったほうがいいなと思って衝動でソロを始めたんです。だからスタートしたばかりの頃はある意味、レミオロメンの活動の中で溜まっていた“貯金”があって、『オオカミ青年』はそれをすべて吐露したアルバムだったんですよ。でも、リリースしてツアーもまわったことで願いは成就してしまって、自分が空っぽになってしまった。そのまま歌い続けても多分、レミオロメンと何ら変わらないものになってしまうだろうし、でもソロとしての吐露するものもない。要は「何もない、困った」って状態になってしまったんです。
――それってアーティストとしてかなり怖い状態じゃないですか。
【藤巻】 だからここまでくるのに3年半、かかりました(笑)。当時、僕の中でどういうことが起こっていたかっていうと、レミオロメンらしさとかソロらしさっていう線や仕切りを自分の世界に作ってしまっていて、音楽に使えるスペースがすごく狭くなっていたんです。狭いところで何かをやろうとしているときって「こうするべき」って固定概念でがんじがらめになっているから、生きること自体がもう苦しいんですよね。だからまずその“線”の存在に気づくこと、そしてその線は誰かが引いたわけではなく、自分が引いたものだから自分で消していく必要があった。1本ずつ線を消していくとその分、スペースが広がるし、そうなると人間って救われるんですよね。『日日是好日』はそうやっていろんな線を消すことで癒されながら作った作品。この中に「回復魔法」って曲があるんですけど、まさに自分が回復する過程をこの1枚のアルバムで如実に表せた気がします。
――アルピニストの野口健さんとヒマラヤやアラスカなど、世界中を旅したことも“回復”のきっかけになったそうですね。
【藤巻】 そうですね。やっぱり人間って東京にいて自分のサイクルで動いているうちは、自分のことをなかなか客観的には見られない。でも物理的にそこから離れて山の中を2〜3週間も歩いていると、精神的に目線が俯瞰になっていくんです。で、余計なものがどんどん削ぎ落とされていく。そうなると自分の中で本当に“大切なモノ”と“大切そうなモノ”の違いが少しずつ見えてくるんですよ。
――例えば?
【藤巻】 責任を果たすとかファンの声に応えるって一見、大切そうだけど、ある意味、自分で何とかできる範疇を越えている話で、それは“大切そうなモノ”じゃないかなと。本当に大切なのは自分が本当にいいと思う音楽を仕上げていくことで、そこにエネルギーを注ぐべきだと思ったんです。聴いてくれる人のために曲を作るっていうのも嘘じゃないけど、突き詰めると少しだけ嘘になるというか。むしろ、自分がいいと思う音楽を作ることがゆくゆくはそこに繋がっていく…。それってある意味、恋愛と一緒だと思うんです。相手に振り向いて欲しい、好きになって欲しいって思っても人の心は変えられないじゃないですか。こっちを好きになるかどうかは向こうが決めることで、自分ではどうしようもできない。だったら自分自身が変わることにエネルギーを注ぐほうが、もしかしたら好きになってもらえる可能性も上がるかもしれないっていう。
■レミオロメンの曲を演奏したときにすごく楽になった
――わかりやすい例えですね(笑)。
【藤巻】 実際、僕自身、(リスナーに)愛されたい、好かれたいって思っているうちは煮詰まってしまうことが多かった気がするんです。そこに気づいたときに“大切そうなモノ”は一回、手放してみようかと。そしたらすごく風通しが良くなって、他愛もないことを歌った曲でも「自分がそう思うならいい」っていう、新たなルールができた。それがこのアルバムの明るさとか解放感に繋がったんじゃないですかね。
――最新曲の「春祭」なんかはレミオロメンらしさもソロらしさも飛び越えて、新たな“藤巻亮太”の曲になっていますよね。
【藤巻】 実は去年、レミオロメンの曲を演奏したときにすごく楽になったんです。これも自分が作ってきたものだし、そこを閉じてしまったらソロもできない。そうやってレミオロメンの曲を歌う自分を肯定したときに一番、大きなスペースを獲得できたんですよね。しかも閉じていたものを改めて開くと新たな化学反応が起こって、開いた今の自分にしか作れない曲がどんどん出てきた。だったらそこに蓋をするのはもったいない、たっぷりとあるその豊かな世界の中でやっていけばいいんじゃないかなって思ったんですよ。
――昨年5月のインタビューでは「いつかはレミオロメンをやりたい」とも言っていましたが、その気持は今も変わらず?
【藤巻】 その頃はそうやって自分を鼓舞しないと先に進めない時期だったんだけど、メンバーそれぞれの状況もありますからね。そういう意味で言うとさっきの恋愛の例え話と同じで、自分でどうにかできる時期とできない時期があって…。今後、ご縁があって実現したら素晴らしいことだけど、努力してそこに向かおうとは思っていないんです。それよりも今は目の前の音楽にエネルギーを注ぎたい。その中で機が熟したときにはレミオロメンの再始動もあるかもしれませんね。
(文/若松正子)
コメントする・見る
2016/03/24